乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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<   2008年 11月 ( 11 )   > この月の画像一覧

冬の雨が降っている

雨粒が傘のうえでたえずはじける、こまやかな音を聞きながら、坂道をのぼる。

なにかを見たり、聞いたり、感じたりするとき、「わたくし」は平板なアンテナとして、
外部のものを受けとめふるえたり、光ったりする。
それらを、書く、という行為に昇華しようとするとき、言葉は自意識のかたまりに
なってしまう。

自意識からしか言葉はうまれない。
→言葉から自意識をのぞきたい/言葉と自意識のバランスを等分にたもちたい。

雨が傘にあたると、傘が音のかたまりになって、生きている、とはさすがに思わないけれど、
この頭上のものをとっても「傘らしい」と思って、そのことが少しうれしいような、
なぜか誇らしいような気持ちになったりするのだ。
それを言葉でうまく伝えることがむずかしいなあ、と思いながら坂道をのぼる。

11月21日金曜日。
仕事において、自分ではどうしようもできないことがことごとくうまく進んでおらず、
やさぐれた気分になる。頭の中が明るすぎてうまく眠れないので、本棚から
『政治家の文章』(岩波新書/武田泰淳著)をひっぱりだして読む。
政治について書いてある本なのだろうと思っていたが違った。
武田泰淳の手のひらのうえで、それらはまず言葉としてたちあがり、
読んでいるわたしはいつのまにかその言葉から、なぜだかほど遠いはずの
「文学」のことを考えさせられている。不思議だ。
文章から、その政治家の「人間」としての姿がじっくりと炙りだされてゆく。

11月22日土曜日。
勤務後に、あるお方のはからいで、ずっとお話をおうかがいしたかった方との密会(?)。
仕事について話しながら、どこでも何かしらいろんなことがあるのだなあ、と思う。
ある程度の規模の組織に属しているのは、本当に楽だなと思う一方で、
きゅうくつなことも多い。さいしょからさいごまでを見られないことが時に心配だし、
やや面倒くさい。話しながら前日のやさぐれた気分が晴れていることに気づく。
晴れたところで映画、共通の知人の話などで夜半までもりあがる。
3人とも翌日仕事なのに。
ちょっとだけ先に帰らせていただき、知人に電話で興奮気味に報告。電話しながら
部屋の扉をあけると、普通におかえり、と言われてびっくりおどろく。

11月23日日曜日。
パソコンでマニュアルをつくっていたら、いつのまにかキーボードが目の前に。
眠い。上半身がぐりんぐりんまわりそうに眠い。
ちょっと早めにあがって、ユニクロで冬用の部屋着を見ていると、知人からメール。
近くにいたのでいっしょにごはんを食べることに。
ああ、乙女心から遠くへだたれた名前の居酒屋、「玉金」へ。
いや、でも串やお替り自由のキャベツなど、安くておいしかったです。また行きたい。
約束しないでも人に会えるということはすてきなことであるな、と思う。
大相撲千秋楽優勝決定戦に興奮する。安馬という力士はなかなかいいですね。

「潮騒」のページナンバーいずれかが我の死の年あらわしており(大滝和子)

おやすみなさい。
by mayukoism | 2008-11-25 03:41 | 生活
いま、いちばんののぞみ。
歩いてもずりおちない靴下がほしい。


とうとつだが、モーニング、というものが好きだ。
モーニングセット、モーニングプレート、など。
朝から外食。非日常のにおいがする。わくわくする。
朝食とはちがう。朝食は日常の景色の中だ。
白い鋭角のひかりにテーブルは照らされて、いつもよりあざやかな一日がはじまる。
びんぼうな夜更かしにはなかなかのぜいたくなのだ。


デザート、というものも好きだ。
夜もふけて、空腹は満たされ、話すことももうそんなにはない。
横目で終電の時間を確認し、あとどれくらいいられるのかを、頭の中ではじく。
ひとりとひとりで、ぼんやりと歩いていると、ふいにこう言うのだ。
じゃあ、デザート食べよか。
まだ休日の夜はおわらない。うれしくて意味もなく小走り。


おみやげ、というものも好きだ。
おみやげのことを言うとき、ひとはあまりこちらを見ない。
たとえば仰向けで本を読みながら、あ、そういえばおみやげがあるよ、とすまして告げる。
おみやげ!そんなだいじなことをきみは忘れていたのかきみは。
冷蔵庫をあけて、自分の知らない何かが入っていたときのおだやかな興奮。
なにかにまもられている、と思う。どうせすぐにむきだしになるから、いまだけ。


そんな感じの休日だった。


もったいなくてなかなかすすまない『幻影の書』(新潮社/ポール・オースター著)。
こんな書き出しでは、おもしろいにきまっているのだ。

誰もが彼のことを死んだものと思っていた。彼の映画をめぐる私の研究書が出版された
一九八八年の時点で、ヘクター・マンはほぼ六十年消息が絶えていた。


ああ、すすまない。
by mayukoism | 2008-11-21 00:38 | 生活
ゆううつだ。
ゆううつなのである。
ひらがなで書くくらいでちょうどよい。
憂鬱、と漢字で書くといばらのようなイメージで、見ているだけでちくちくいたい。
社内で異動があり、わたしは異動しないのだが、来月からのたいへんな仕事を
わりふられてしまったのである。
いってみればアルバイトのみなさんを統率するみたいな、けったいな仕事なのである。

いろんな方にその話をふられて、ふられるたびに新しい発見があった。
あ、そんな面倒なこともやらなきゃいけないんだったそういえば、というゆううつな
発見である。
じぶんはじぶんで、ひとはひとで、と思って生きているから、実はあんまりなんにも
かんがえてない。
みなさん勝手におもしろくやっていただきたい、とほんとうは思っている。
そんなことではなく、たとえばずっと、わたしはかにのはさみとたわむれていたいのだ。
たとえばずっと、トンネルの灯りの数をかぞえていたいのだ。それなのに。
あーあー(うたう)。

図書館本。
『マタニティドラゴン』(筑摩書房/川本晶子著)
津村記久子と太宰治賞を同時受賞してデビューした作家の新刊。
受賞作『刺繍』(筑摩書房)が思いのほかおもしろかった記憶があり、リクエストしてみる。

表題作よりも、所収の『ことり心中』がおもしろい。
表題作は、女彫師という設定に、物語全体がひきずられすぎていて、バランスが
あまりよくない。
いま、三十代女性をリアルに書きだす作家といえば角田光代だと思うけれども、
川本晶子はもう少し上の、三十代後半から四十代くらいの女性のすがたをえがく。
川上弘美から、蛇的要素(?)をぬきとったような小説である。
「クツシタ」と呼ばれる51歳の、枕のくさい、お腹の大きい、風呂を垢だらけにする男と
「私」との日々がえがかれている。そこにはそこはかとなく、おしつけがましくなく、
おとろえとおわりの匂いがする。それが物語をつましくしている。
後半に「男」が出てくるのだが、これがいらなかったと思う。とってつけたようで、
これさえなければもっとよかったと思うのだが残念。
いわゆる純文学向きではないけれども、読むものに、確実に届く言葉を書ける人だと思った。

チーズクリーム大福が増えている。
いままでは2個の入荷だったのが、一気に5個に増えている。
毎日のように買い占めていたからか。
2個買う。仕事の前と、仕事のあとにいっこずつ食す。
あーあー(うまい)。
あーあー(こだま)。
by mayukoism | 2008-11-18 00:54 | 本のこと
おばあちゃんは小さい。
立ち上がると半分くらいしかない。
着られる服がない。小学校三年生向けのズボンが比較的よい。
ぶかぶかのジーンズの下に、余った『nicola』の付録の靴下を履いている。

今日はじめて、おばあちゃんの本屋がかつて古本屋であったことを知った。
ずいぶん長いことやって、そのあとは貸本屋、でもそのうち関西の人が東京に進出して、
関西人は商売がうまいからかなわない、と、新刊本屋をはじめた。
その話をもっと聞きたいと思ったが、おばあちゃんの耳はとおい。
そして補聴器をつけたがらない。
餃子が食べたい、と言ったのに、大きな傘だね、と言われる。
それに、根掘り葉掘り聞くと、話し終えたときふといなくなってしまう気が少しして、聞けない。
本屋のことはいつでも聞けるからと思って、いつも聞けない。

夜中に変な声の人が来たらとびらを開けちゃだめだ、と言う。
来たら、もう寝ましたと言え、と言う。

珈琲を飲んで、帰り際、駅まで送っていくから、とやわらかく背中を曲げる。
駅で、おばあちゃんを改札の向こうに、一人で帰すことのほうがどう考えても心配で、
極悪非道な孫の図だと思うのだが、二人で商店街を歩く。
瀬戸物屋がなくなってドラッグストアに、煎餅屋がなくなって不動産屋になっていた。
よく連れていってもらった玩具屋は、ずいぶん前になくなってジーンズショップに
なっている。
店を閉めたあとの麦酒が唯一の愉しみ、と横でおばあちゃんが腰をういとのばす。

気をつけて、と言い合い別れる。
改札を通って振り向くとまだいる。
腰を曲げて、顔だけがこちらを見ている。
なんて小さいんだ、おばあちゃんあなたは。
蛍光灯のたよりない宇宙にまぎれてしまいそうですよ。

手をふる。
by mayukoism | 2008-11-17 00:17 | 生活

時間を超えていく

朝、はたと腕時計を手にとると、短針が3を、長針が6のあたりをさしている。
あ、とまった、と思う。
いっとき、空へ放り出された宇宙飛行士のような気持ちになるが、
なければないで、慣れるものだ。
かろやかな左手。自由な左手。
働いていなければ、たぶん腕時計はつけない。

読了。
『いつかソウル・トレインに乗る日まで』(集英社/高橋源一郎著)

これはほんとうに、高橋源一郎の小説なのだろうか。
まちがって、村上春樹の小説を手にとってしまったのではないか。
読み終えて、とてもながい旅行をしたような気持ちだった。
それは距離ではなく時間で、未来ではなく過去だった。

あるときまなざしが交錯し、あとはどんどん純化されていく。
純化されながら、言葉が生まれつづける。
言葉が生まれつづけて、ひとつとひとつの存在になる。
ひとつの存在は言う。

「わたし、言葉なんか、いらない」
だから、ぼくは、ただ微笑んだ。ぼくの内側にあるのは、「喜び」ですらなかった。あるのは、小刻みに震えるような、「哀しみ」だった。いや、それは、ただの言葉でしかない。ただ、ぼくの内側で、それは、震動していて、その震動の一つ一つが、ぼくを強く揺さぶるのだ。


もう少し、「運動」の歴史や精神が物語全般にからんでくると、厚みが出たのでは
ないかと思うが、それはあえてしなかったのかもしれない。
この小説を、ほかのだれでもなく高橋源一郎が書いたこと、そのことをどうしたって
考えてしまう。
遺言、という単語が頭にうかぶ。いや、高橋源一郎は元気なはずなのだけれども。
なぜ、世界を言葉でここまで純化しようとしたのか。
高橋源一郎は、どうしていま、こんな小説を書いたのか。
by mayukoism | 2008-11-15 00:13 | 本のこと

桂馬が歩けば夢にあたる

うすら寒い休日。
ブーツのファスナーをぐいっとあげて、街を横断する。
休日は、気分でだれにでもなれる。
心に迷いを秘めた団地妻にも。
休憩中に恋人を思うタクシー運転手にも。
くだらない想像をしながら、知らない道をずんずんと歩くのだ。

行き先は図書館とブックオフ2軒。
図書館へはリクエストした本が届いたとの報せをいただいたゆえ。
あとは前述した衣更着信と藤井貞和の詩集があれば。
衣更着信は現代詩文庫を見つけた。
藤井貞和は、めあての詩集が区内のどこにもなく、リクエストすると、
時間がかかりますよ、と言われた。
いくらかかってもいい。忘れたころに届くのもよい。
その足で、やや遠いブックオフへ。

月末に市に出店することになったので、多少セドリができればと。
客層がわからんのだよなあ。
ブックオフだと、やはりあたらしめの本しかない。
コンセプトやねらいをどうするか迷いながらも、まあまあの収穫。
もう恋なんてしない、もとい、もう均一棚しか見ない。

もう一軒のブックオフへは列車に乗っていく。
絵本の棚で『おそばのくきはなぜあかい』(石井桃子・文初山滋・絵/岩波書店)。
復刊本。これは均一でないが、うつくしいので買う。
このブックオフでは、初山滋絵本を前にも見つけた。
どうして売られてしまったのだろう。
セドリ初日としてはそれなりに満足し、徒歩で帰宅。近いので。

夜は、知人と新文芸座「映画作家・川島雄三」。
『しとやかな獣』と『人も歩けば』の二本立て。
周りに映画好きが多かったので、映画を観たあとは語らなければいけないという
先入観があるよ、と言うと、それはないなあ、と言う返事で安心した。
語らないことにする。

ただ、川島雄三の映画を観たあとは、あたまの中が広くなる。
開けた場所に出て、いろんな景色が、自分なりの地図が、なんとなくはっきり
見えそうな気がするのだ。
いわばなんでもありなのだ、とそんなことを思いつつ日高屋の餃子を食す。
それにしてもフランキー堺という俳優は、わたしにとってオアシスのような人だ。
この人に、たとえスクリーンの中でも、会えてよかったと思う。

今日もチーズクリーム大福はなかった。
by mayukoism | 2008-11-14 02:00 | 見たもの

ことばのつえ

東京と仙台の明日の、日の出の時刻は同じ。
名古屋の日の出は、東京の10分後。
ラジオがそのように告げる、さむい夜であります。

衣更着信について尋ねられ、詩人の、と答える。作品は読んだことがない。
ただ、この名前を見ると、全く関係ないのにどうしても『F式蘭丸』(大島弓子)の
「更衣の君」を思って、ややときめく。
だからなのか、そのあとさらに藤井貞和のある詩が収録されている本、について
尋ねられたときに、その題名は聞いたことがあるぞ!と思って、おもわず
「仕事」の枠をぽーん、と越えて、親身になってしらべてしまった。
おかげで詩集は判明し、あ、それはすごくうれしい、と言っていただく。
わたしもうれしいです。こういう接客はたまにしかできない。
そしてまたばたばたと「仕事」に戻りながら、今日は身体のどこかでずっと
詩のことを思っていた。
言葉の内圧の高さに、ひかれているのだたぶん。

久しぶりに退館がいちばん最後になる。
フェアの入れ替えとフェアの選定と、イベントの企画の打診と配架、それらに
営業中はまったく手をつけられず、閉店後、おにのように働いてみる。
なぜか、「NHKみんなのうた」で流れている『PoPo Loouise』 (演奏・うた:
栗コーダーカルテット&UA)という歌のサビの部分が頭からはなれない。
こないだいちど聴いただけなのだが。

サボテンの花が咲く季節に また逢えるまた逢おう
E Le Vu Sha Ki La Ku Pa Di Ma To Ka Lei
PoPo Loouise PoPo Loouise

歌いながら、台車を押してみる。
すぐやめる。

今凝っているもの。
ミニストップで売っている(他のコンビニ、スーパーでも売っているのか?知りたい)
「チーズクリーム大福」95円。
敷島製パン販売。餅生地がやわららららーかくて、クリームがほどよくチーズ。
あると必ず買う。そして売り切れる。そしてなかなか再入荷しない。

真夜中。
「狭山抹茶のシュークリーム」をお土産にもらった。おいしかった。
しゃべるだけしゃべって、酔っぱらいは寝た。

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。(穂村弘)

おやすみなさい。
by mayukoism | 2008-11-11 03:33 | 言葉

走る人

池袋にて昨晩、晴れやかな記念日の飲み会に混ぜていただいた。
気がつくとなぜか既婚者に囲まれている。
OさんとRさんがおたがいの奥さんを、真摯にほめあう姿が印象的であった。
それぞれの人に、それぞれの時間が流れて、たまたま会ってここに集まる。
そこに自分がいつのまにかいることが不思議だ。
そしてたぶんいつまでも不思議なままだろう。
テレビは、若いピッチャーの姿を大写しにする。画面左上の点差を確認して、
ビールから紹興酒へと切りかえる。
紹興酒は、醸造酒。
Oさんに教わったのだ。

そして今夜は、部屋で鮭炒飯を食しながら、その日本シリーズ最終戦を見ていた。
8回表の片岡の走塁のなんというあざやかさよ。風のようだった。流れが変わる、
まさにその瞬間を見たように思った。
野球について語れるわけでもなし、贔屓のチームがあるわけでもなし、
けれども昔からなんとなく気になって、スポーツニュースもつい眺めてしまう。
今日の試合は、途中からではあったが、夢中になって見ていた。
胴上げの前に、「おれたちジャイアンツに勝ったぞ!」みたいな台詞をマイクが
ひろっていて、ああ、とちょっとひとりで感極まってしまった。弱い。

野球は華やかなスポーツではないと思う。
我慢して、辛抱して、積みかさねながら、要所要所で流れをはなさなかったチームが
最後まで残っていく。耐えしのぶ物語のなかで、選手一人一人の顔も浮いたり
沈んだり、じっくりと見えてくる。
その成り立ちがやや小説っぽいと思った。少なくともサッカーやバレーボールより
ずっと小説らしい。

借りた本。
『バンドライフ』(メディアックス/吉田豪)
ちょうど1年まえに、誘われて森若香織のライブに行った話をしたら貸してくれた。
おもしろい。
吉田豪のリサーチがすごい。インタビュアーという仕事について考える。
美術部の先輩が、筋肉少女隊のおっかけをやっていたことや、
バービーボーイズのCDを貸し借りしたことなんかを思い出している。
制服だった。
中学生だった。
by mayukoism | 2008-11-10 02:45 | 生活

いつかの船出

いま、「山崎製パンが不二家を子会社化」というニュースのなかで、
ラジオのキャスターが、「「ペコちゃん」が「ヤマザキちゃん」、と
いうことになると、企業イメージはどうなるんでしょう」と話していたが、
十中八九「ヤマザキちゃん」はないと思う。

仕事をはやめに切りあげて、思いつきで「ヒナタ屋」。
おちついて考えたいことがあるときに、ときどきひとりで来る。
ひとりで入ることができて、なおかつ長居できるお店を、その町で
ひとつふたつは知っていたい。ひとりのときはお酒は飲まないから、
椅子についても、ご飯か甘味か、悩めるお店がいい。

考えごとをしながら、ときどき読書。
『波打ち際の蛍』(角川書店/島本理生著)
図書館本。
なるべく若い作家のものも読むことにしているけれど、いちいち買っていると
きりがないのでだいたい予約して借りるのだ。

ううむ、少女漫画だ。主人公がどんな状況におかれていても、守られている。
守っているのは作者で、これが作者の世界へのコミットの仕方なのだと思う。
でもこの方法はいずれ限界がくるだろう。あまりに世界が清潔すぎる。
この、穢れのなさに救われる人もいるかもしれないから、このやり方で
生き延びていければそれでいいのかもしれないけれども、個人的には、
こんなんじゃない、と思う。うつくしい傷は存在しない。

ただ、いわゆるカウンセリングやセラピーといったものについて、これは
いったいなんのための話し合いなのか、と問う主人公に、ぜんぶ含めて
それを判断している自分自身を信頼するためにある、というくだりは、
ああ、なるほど、と思った。

辛目のチキンカレーに満足して、「ヒナタ屋」を出る。
夜の橋から見るJR御茶ノ水駅は巨大な船のようだ。
蛍光灯の白さにぼやけたプラットホームが、神田川に揺れている。
「焼肉」、「中華料理」、「居酒屋」のネオンをいくつも屋根の上にのせて、
もう来ない人たちをじっと待っている。
by mayukoism | 2008-11-08 00:05 | 生活

河岸段丘

本棚を眺めながら、故郷について話していた知人が、ふいに河岸段丘、と
言ったのだった。
かがんだんきゅう?
その人は宙に指で、見えない図をえがいて説明した。なぜかその日からずっと、
河岸段丘のことが頭からはなれない。

だから、『未見坂』(新潮社/堀江敏幸著)で、河岸段丘が出てきたとき、
意識はそこに集中した。
『雪沼とその周辺』に連なる短編集として刊行されたこれらの小説も、おそらく
架空の町が舞台なのだろう、と調べてみておどろいた。
すっかり忘れていたのだが、『雪沼』には「河岸段丘」という短編がふくまれて
いたのだった。

『いつか王子駅で』で、物語の中で閉ざされていたすべての場所が、
ゴールに向けて後ろに流れていくような、あの感じがとても好きだったので、
『雪沼とその周辺』を読んだとき、美しいが少し抑制がききすぎていると感じた。
『未見坂』を読んで、どうもその印象は間違っているような気がした。
夏の引越以来、はじめて整理した本棚から『雪沼』を出そうとしたが、ない。
『雪沼』のみならず、好きな『王子駅』さえもない。なんでだ。

そんなわけで、ひとまずは『未見坂』を読了。
河岸段丘のある町に住みつづける人、出て行った人、戻ってきた人、
さまざまな人が、さまざまな角度から、この町にひかりをあてる。
それは明るさではない。雪に反射する白銀灯くらいの暗さで、
風景はぼんやりと浮かびあがる。

すべての物語に別れのにおいがする。それは死や死の予感であり、
離婚であり、あるいは町の変化の兆しである。
人々は個人的な体験を語る。だれもが些細な、しかしそうおいそれとは
切り出せない繊細な出来事をしずかに語りはじめる。それはどこにも届かない。
それはただ幾層にも重なって、気づくといつのまにか大きな流れをつくっている。
きっと、見たことのない河岸段丘のように。

読んだのち、この町と、この町に暮らす人々の姿がいつまでも離れないのだ。
テンションの高さで、安易に感情に訴えるような文体ではまったくないから、
物語と、読んでいる「わたし」との距離は遠い。なのにいつまでも離れない。
そしてそのことがなぜこんなにかなしいのだろう。

どの短編もよかったが、初読でまずすごいと思ったのは、『苦い手』、つづいて
『戸の池一丁目』、『プリン』、『未見坂』(これは収録の順番)でした。
今日はこの本をときどき読みながら、ときどきうたたねして、原稿を書く人の横顔や
背中を見ていた、そんな冬のはじめの休日でありました。
お米を研ぐ水をこの部屋ではじめて、冷たい、と思った。
by mayukoism | 2008-11-06 02:25 | 本のこと