乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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<   2012年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

ぬばたまの髪は乱れて

女の髪とは、情念だろうか。
5年ほど前に、わたしは情念をばっさりと断ち切ってしまった。
以来、髪をのばしていない。


この髪形をいいと言ってくれる奇特な方がいくらかいるので、というのは
わたしの髪は生まれつき多く、ふとく、黒く、妙なクセまであって、
生まれて数カ月の写真などは、すべて髪がモヒカンになっており、
ようするに、数あるコンプレックスのうちの一つなのだ。
かつて三つ編みにしたポニーテールを「綱ひきの縄」とひっぱった男子よ、
きみをわすれまじ。
ジーン・セバーグもナウシカもとうにあきらめたころ、この困った髪を
うまくまとめてくださる美容師さんに、たまたま出会ったのだった。


髪形を変えたことに気づかない異性を、女がたぶん忘れないように
髪形をほめてくれた異性のことも、女は忘れない。


その美容師さんと、ここしばらく予定が合わなかったが、先日ふたたび
髪を切っていただく機会にめぐまれた。
切る人によって、こうも感触がちがうものか、と思う。
シャンプーひとつとっても、地肌につたわる感触から、
洗ってくれる人の性格や、今日の気分を妄想できる。
洗うほうも、想像しながら触れるのだろうか。
相手のことをなにも知らないのに、触れさせている。
あずけている。


切ったばかりの毛先から、過去への情がいっとき、滴りおちる。


向田邦子の随筆『浮気』(『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫)所収)には
いきつけの美容院を移る話が出てくる。
新しい美容院から、ふたたび元いきつけの美容院に戻ると、

「前と同じでいいですか」
といいながら、髪をさわる。久しぶりにうちに帰ったような、安らかな気分になる。
それでいて新しい店の人に済まないなとチクリと痛いものもある。
長い間浮気していた夫が、二号さんのところから本妻のところへもどったときは
こんなものかな、と考えながら目をつぶっている。
(向田邦子『浮気』より)


と「二号さん」「本妻」に例えて、この美容院の逸話のように、
女は毎日の暮しのなかで、自分でも気がつかないくらいの
「ミニサイズの浮気」をかさね、憂さばらしをしているのだと言う。
この情景は、同じく向田邦子の小説『胡桃の部屋』にそのままむすびつきそうだ。
家を出た父と、残されたはずの母が、外で逢いびきしているのを目撃した桃子は、
父親がわりを気どっていた自分を嘲けわらいながら、美容院へ駆けこみ、髪を切る。
そこである句を思い出す。

 胡桃割る胡桃のなかに使はぬ部屋
いつどこで目にしたのか忘れたが、桃子はこんな俳句を読んだ覚えがある。
たしか詠み人知らずとなっていたが、気持ちの隅に引っかかっていたのであろう。
 甘えも嫉妬も人一倍強いのに、そんなもの生れつき持ち合わせていませんと
いう顔をしていた。だが、薄い膜一枚向うに、自分でも気のつかない、
本当の気持が住んでいた。
(向田邦子『隣りの女』(文春文庫)所収『胡桃の部屋』より)


髪をばっさり切るとその「意味」を知りたがる輩が多い。
意味ではなく、髪を切る、という行為がときに必要なのだと思う。
本当のことを知りたくて、髪を切る。
本当のことを知ったから、髪を切る。


子どものころ長かった自分の髪は、ずっと母が結っていた。
そのころ女子のあいだでは、「編みこみ」が流行っていた。
休み時間、編みこみの得意なUちゃんに結ってもらったことがうれしくて、
帰るなり母に見せたところ、編みこみはできない、と怒ったような顔をした。
はっとした。
以来編みこみはしておらず、編みこみのやり方も知らないままだ。
下校する小学生の髪形をなんとなく見ることがあるけれど、
「編みこみ」の女の子はほとんどいないような気がする。
髪を結うUちゃんのなめらかな手つきを思いながら、
彼女はどんな大人になっただろうか、とぼんやり想像してみる。
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by mayukoism | 2012-03-31 23:50 | 生活

ソフトクリーム考現学

いかにしてソフトクリームを食べるか。

と、真夜中、友人たちと円い卓袱台をかこんでふと、そんな話をした。

ふもとから頂上へむかって、ゆっくりと低山をのぼるように食べる。
まずはコーンの手前で更地をつくり、終盤にコーンとクリームの一体化をめざす。
先をつねに「くるん」とさせ、小さなソフトクリームを作るように舐める。

暖房のきいた和室で、夏の食べものの話をしていることが少し、奇妙だった。

ソフトクリームをさしだされるとき、わたしはソフトクリームの後ろ姿のことを考えている。
くるくるとはなやかに着飾った女の子のような食べものだから、
この「くるくる」のいちばんいい角度をさがしてあげたい。
いちばんいい角度を見つけたら、そのうしろにはもちろんソフトクリームの背中があって、
背中はすこしだけ、無防備である。
虚勢をはることにちょっとだけくたびれてしまった、だれかによりかかりたい背中なのだ。

その背中を、なでるように食べる。

と言ったら、おそらくあらぬ誤解をまねくと思い、その夜は言わなかった。

ソフトクリームの「巻き」について考えるとき、そこには宇宙的ななにかがある気がする、
と言ったら、これもきっと困惑の表情をかえされる気がするけれど、
あの「巻き」からはすこし、メビウスの輪のような無限のにおいを感じる。

たとえばコーンがこの惑星で、クリームが宇宙で、いまもこの地上をみおろし、
高い場所からいつまでも「クリーム」を巻きつづけているなにものかがいるのではないかと、
直線で区切られた池袋の空をなんとはなしに見ながら、夢想することがある。
クリームはいつか巻き終えるのだろうか。
コーンの底はすこしたよりないような気がするのだよ。

夢想はどこにもうちよせない。
夢想は答えをもとめていない。
夢想は自給自足である。
だから、わたしは友人と卓袱台をかこんだあとの、いまみたいな一人の時間も好きだ。
夢想とは、頭の中で終わらないソフトクリームを巻きつづけるようなものだ。
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by mayukoism | 2012-03-24 04:46 | 生活
吉本隆明がいなくなった日


交差点ではいさかいがあり
白い靴下の見える担架が
救急車にのせられていった
横断歩道で警官と対峙した
黒っぽいネクタイの男に
見おぼえがある気がしたが
ふりむかずにあるいた



吉本隆明がいなくなった日


白杖の男性が車道に向かい
あぶない と思ったところで
杖のないほうの手をあげた
空車の赤い文字は3つ過ぎた
ふりむくと男性は停まった車と
すこし長めの会話を交わし
後部座席にすいこまれていった



吉本隆明がいなくなった日


中華屋の看板に黄色の電飾が走り
カウンターでラーメンをすする
女性がむかしの同僚に似ていた
むかしの同僚は北のほうで昇進して
課長代理になったから
別人だということはわかっていた
中華屋の閉店時刻は午前2時だった





思想家がひとりいなくなるということは
大きな夜のようだと思った





大きな夜からのがれるため夜は
明るくなるのかもしれなかった





本屋ではたらいています でも
『共同幻想論』は読んだことがない
『言語にとって美とはなにか』は読んだが
なにが書かれていたかおもいだせない
それでも追悼の文字をかかげて
明日またあなたの本に触れる
棚をつくる、ということは なんて
孤独な作業なのだろうと思いながら
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by mayukoism | 2012-03-17 03:59 | 言葉

twitter的短歌vol.1

いつかやろうと思っていたことを、今日やってみました。
わめぞblogに連載させていただいている「twitter的日常」より、備忘録的に短歌だけまとめました。
ほぼ自分用…なので、興味のない方まことに申し訳ない。
以前に詠んだ短歌もたぶん300首はあるので、いつかなんらかの形でまとめられればとは思います。

ちなみに1首だけ、「みてみせて」は以前に詠んだ歌なのですが、
なんとなくそのときの気分に合っていて、未発表歌だったので、掲載しました。

季節をおぼえています。
その歌を詠んだとき、どんな花が咲いていて、どんな色の空だったか。
では、よかったらどうぞ。

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【twitter的短歌】2011.8~2012.2



ホチキスが空を噛むとき手のひらにあの日の夜が生まれてしまう


もうどこも行かないし、もうどこからも帰らないよ、と言う蝉時雨


どこからかわからないけど口笛がきこえる 寝ずに会いにいきます


いつ死ぬかわからないから霊園の自販機で買うPEPSI NEX


櫛の背をあててわたしの中心はどこなのだろう 考えている


天気なら横断歩道の白線がきれいに見える曇天が好き


信号が青になるとき、まもられたままでもよかったなって思うの


わたくしの一部になってくださいと夜の水道水を飲みほす


寝るまぎわ見る星雲がありたぶん死んだらそこへ行くのだと思う


心という字の点々はいまにも飛ばされそう 八月だ


窓ぎわの歯ぶらし同じほうを向き可愛い嫉妬なんてないのよ


自転からはぐれてもいい、宇宙には番地はない、と傘をまわした


真夜中に炭酸を飲む 宇宙から見ればわたしも空なのだろう


いろはすの空のボトルをひねるとき忘れたことも思い出さない


雨水がながれこむのでそこだけが低いとわかる ゆるさないで


心臓を好きなリズムで鳴らせたらいいのに朝のあいさつとして


夜半から降る雨/////鳥と人とはどこで隔たれたのか


昨夜からいままで傘についていた水の気持ちを考えてみる


浴室の空気はまるい ほんとうも嘘もひとしい重さでしずむ


飲みかけのペットボトルの水面に小さなひとを泳がせてみる


いまはまだ書かれていない詩のために少女の白きハイソックスよ


転居先不明の手紙やぶられてひるがえるときあの大銀杏


ていねいにひだをそろえたスカートの数だけ夏が正しく終わる


空という字にふりがなをふる そら、とふってもあき、とふっても青い


夜中あなたのほどけた髪がこの町を流れる川の輪郭となる


空にした炊飯ジャーがいつまでもいつまでもあたたかいので泣こう


あこがれはうつくしくあってほしいから、わたしはだれにもあこがれない


家々の物干しざおはおしなべて斜めに/空と/きみとを/わかつ


親展の手紙に封をするようにあなたの肩の傷をおさえる


五線紙の音符をたしかめるように水平にとぶ蜻蛉を見ている


駅という駅をつなげて東京に星座をつくるきみが名づける


ふとふるえだす冷蔵庫のモーターはこわしたときのお腹の音だ


まぶたとはわたしのなかを夜にするスイッチそこにわたしはいない


朝の陽と夜のひかりが床上で碁盤のようにせめぎあう部屋


感じない、けど降っている雨 ある種のダメージとはたぶんこのようなもの


たちどまり目薬をさす人 ふいに舗道に生えた木のように見え


オリーブをちぎった指をちかづけて0時ちょうどのまばたきをする


スズカケの落葉に夕暮れがきていっせいに燃えあがる書皮たち


あざやかにパスタを巻いてきみは言う これがわたしの自転の速度


ランチタイムの終わりはすこしさみしいとだれも言わないけれど知ってる


泣いたってよかったのだろう手のひらの乳液がしみこんでゆく頬


気をぬくとわたし発光してしまうから頭まで湯舟にもぐる


信号がどこまで青に変わるかを、夜、国道のまん中で見る


ドトールの2階で異国の青年が「純愛」という言葉を習う


浴室のタイルの露の冷たさに触れ想像の惑星に行く


隣席の男女が語るご希望の間取りを手のひらに書いてみる


とじられたまぶたのゆるい曲線を集めてあなたの海面は凪ぐ


雪の日の坂道をゆく一歩ごと空に直立する詩のように


みてみせてみないでみての波よせてかえせばさっきとは違う海


言うつもりなんてなかった いまありとあらゆる窓で落ちゆく結露


電線に夜が流れるまっすぐに流れるその他のものも見ている


鋭角の光はわたしよりはやく階段を駆けおりる おはよう


スプーンはまわりつづけるteaという言葉が意味になるまでの間を


タクシーの空車の文字をやさしいと感じたら、もう、はやく眠ろう


死、にむかう身体をながれる時間とは朝なのだろうか夜なのだろうか



【将棋短歌、略して棋歌】惑星は軌道をそれてまっすぐに対角線をすべる角行


【棋歌】ひとりでも平気だと泣く王将を見まもる歩兵のしずかな呼吸


【棋歌】白線は踏まないルール ぎこちないスキップでゆく桂馬の背中


【棋歌】ゆっくりと背骨をなぞりあたたかな場所をさがしておりていく飛車


【棋歌】ひとつまたひとつ灯りを消してゆく夜明けのように銀をうごかす
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by mayukoism | 2012-03-10 03:30 | twitter的日常

夜の背表紙

本棚というもののない家だった。
読んだ本はもっぱら、学習机の下にある作りつけの棚に並べられた。
すると眠るとき、枕元からちょうど椅子の向こうの背表紙を眺めることができる。
その背表紙がこわかった。
ナツメ球の橙の暗さに目が慣れると、机の下の背表紙もゆっくり、はっきり見えてくる。
わたしがこわかったのは、伝記のキュリー夫人だった。
背表紙に赤いゴシックで「キュリー夫人」と印字されている、その下に夫人の小さな顔写真があった。
子どものころ、なによりもこわかったのが、そのキュリー夫人の背表紙だった。

子どもだったからか、その伝記を捨てるとか売るとかいう発想は、皆無だった。
ひたすら毎晩、キュリー夫人の落ちくぼんだ瞳と見つめあう恐怖とたたかっていた。
いちどだけ、「背表紙が見えないよう裏にする」という妙案を思いつき、さっそく実行したのだけど、
昼間のうちに掃除をしにきた母の手によって、背表紙はきちんと見えるよう揃えられていた。
引き出しや、戸棚にしまって見えないところに置くことも考えた。
が、目の前になくとも、そこにあの背表紙が「ある」ことをだれよりも自分が知っている、
たえられない、と思っていた。

ナツメ球のわずかな明るさは、闇を暗さに、光を白さに変えて、想像をどこまでも加速させる。
キュリー夫人の視線から目をそらしながら、一方でナツメ球に硝子玉を透かして見るのが好きだった。
硝子玉は光を内側にとじこめて、中の気泡を星のようにいくつも浮かびあがらせていた。
硝子玉のなかにわたしは入れなかったけれど、意識ならいくらでも入ることができた。
硝子玉の気泡のあいだを、宇宙飛行士のようにまわりながら、意識は泳いだ。
そのうち、暗い部屋で本を読むことをおぼえた。
暗闇でたどる活字は、昼間の活字よりも凛と尖って、その意味をすこし強くしているように見えた。

わたしは夜のキュリー夫人がおそろしく、小さな硝子玉の夜が待ち遠しかった。
キュリー夫人の伝記は、高学年になり不要だと判断され、他の本とともに廃品回収に出された。
大人になり、本棚のたくさんある職場につとめ、本棚のたくさんある部屋に帰ってくるようになってからも、
電気を消して、暗さに慣れた背表紙がぼんやり浮かびあがってくるのをつい待ちながら、
内容はほとんど覚えていないキュリー夫人の伝記のことを、いまも思い出すことがある。
そういえばいま、目の前に見える『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社)という
谷川俊太郎の詩集は、この背表紙をただ見ていたいために、ずっと持っているような気がする。






※本の検索サイト「スーパー源氏」から、件の『児童伝記シリーズ4 キュリー夫人』(偕成社)の
画像を見つけてしまいました。
http://search.newgenji.co.jp/sgenji/D1/?000107880993/


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by mayukoism | 2012-03-03 03:47 | 本のこと