乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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<   2010年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

孤独の輪郭

わたしの思う孤独にはかたちがなくて、輪郭だけがある。

湯をはったユニットバスで膝をかかえた夜のほそい輪郭や、
手をふったあとに歩きだしたホームへかさなるあわい輪郭。

孤独の輪郭を、ひと筆の絵のようにシンプルに描きたいと思うけれど、
いつもそううまくはいかない。

ひと筆で描いたようなうつくしい孤独、というのはじつはその人物が
ほんとうの意味の孤独でないから、生まれるものではないかと思う。

帰る場所があり、うつべき相槌があり、書くべき手紙のある人が、
日常のすきまにうつくしい孤独の輪郭を描きだす。

うつくしい輪郭はなかなか描くことができないけれど、
そういう意味で、たしかにわたしは孤独ではない。

それでも一日三回の食事のように、夜になれば注ぐアルコールのように、
孤独がなければ生きてゆけないなあ、と思う。

孤独の権利、というものが確固としてあると思う。
個人の孤独の権利はまもられなくてはならない。
そして、自分の孤独は自分のやり方で獲得するのだ。

遅く起きた休日。
夜の約束までの時間を孤独のためにつかう、と決める。
強い風におおきくしなる、鬼子母神の欅を見あげながら歩く。

「キアズマ珈琲」の扉をあけると、聴き覚えのある旋律が耳に届いた。

いつもはこんにちは、とあいさつをしてカウンターに座るのだけど、
邦楽めずらしいですね、と思わず口にしていた。キリンジがかかっていた。

はじめは「スウィートソウル」、そのあともランダムに
「アルカディア」、「双子座グラフィティ」、「Drifter」が流れて、
雨がつよくなり、雨やどりの幾人かが店内を満たしたころに、
ふと強く吐いた息みたいに、「雨は毛布のように」が流れ出した。

雨宿りのおしゃべりはつづいた。
だから気がついたのはわたしだけだったかもしれない。
あれはマスターがわざと流したのか。それとも奇跡のようなタイミングか。

物語のつづきに目をおとし、あたまの中で想像の絵筆を持つ。
音楽と雨が、わたしの孤独をいつもよりていねいに描きだす。
さあ、できるだけシンプルに。



たとえ鬱が夜更けに目覚めて
獣のように襲いかかろうとも
祈りをカラスが引き裂いて
流れ弾の雨が降り注ごうとも
この街の空の下
あなたがいるかぎり僕は逃げない

キリンジ「Drifter」より

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by mayukoism | 2010-07-30 03:14 | 生活

怒りについての私的考察

「その人がなにに対して怒るかで、その人の大切なものがわかる」
というような内容のツイートを、pippoさんがtwitterであげていたことがあった。

怒るのは苦手だ。
怒る人をなだめる立場にいることが多いので、自分の怒りで場を乱したくない、という
気持ちが先に立つ。すこしくらいのことならがまんする。
注意することはある。
職場にいるときなど、間違った認識のアルバイトにそれはちがうと説明して正すことはある。
それは怒りとはちがう。

怒りというのはもっと、自分の全存在をかけてするひとつの表現であると思う。
これを伝えないと自分の存在がゆらぐ、というとき、どんな言葉が自分の口から心から
出てくるのか、正直自分にもさっぱりわからない。
でも言う。全身で怒っていると伝える。
それがわたしにとっての怒りだ。
そして、そんなたいそうなことはめったに起こらない。

twitterを眺めて、複雑な気持ちになることがある。
語られている主題がどうこうというのではない。
どちらかというと、主題の外側にいる何者かが、「~が「絶対善」だ」というような
発言をしているとき、あるいはそのふるまいについて、複雑な気持ちになるのだ。
その根拠がわからない。そしてたいてい一義的である。
必ずしもそこで語られている内容を否定したいわけではなく、
実体の見えない言い切りが信用できないのだ。

話は変わるけれど、むかし、とつぜん大学を休学して放浪の旅に出た友人がいた。
周囲は、彼がなんの相談もなくいなくなったことを怒った。
そして、よく彼の話を聞いていたわたしを、なぜひきとめなかったのかと責めた。
今という時期になにもかもリセットすることが、おそらく彼にとって意味があることを
わたしはなんとなく感じていたので、どうあっても自分は彼をとめなかっただろう、と
できるだけ丁寧に説明した。
長い時を経ていざ帰ってきた旅人は、周囲に何も言わずいなくなったことを、
なぜかわたしにひたすら謝った。彼らに悪いことをしたと悔いる言葉をくりかえした。

わたしはそのときはじめて、その相手に怒りをおぼえた。
それではまるであなたがすべての物語の主人公みたいじゃないか、と思った。そのまま言った。
そのときはじめてあっ、と思った。
これがわたしの怒りのスイッチなんだな、と怒りながら気がついた。

「絶対善」然とした発言はその発言者を主人公にする。
それ以外の世界をすべて脇役か、悪のように見せる。
事実そうなのかもしれない。けれど、その発言からはたいがい事実を読みとれない。
根拠なく、不当に舞台からつき落とされたと感じられる何かを、だれかを見たとき、
それをもたらしたものについてわたしは怒る。
それが知らない人であってもなくても、わたしはわたしのすべてで怒る。



でも、この怒りのスイッチのために、わたしが何を大切にしているのかは、
ちょっとまだよくわからない。
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by mayukoism | 2010-07-22 21:16 | 言葉

麻雀ハイブリッド

大学生のころ、麻雀に明け暮れた時期があった。
きっかけはよくおぼえていない。
映画サークルの部室で、よれた麻雀マットをせまい机の上にひろげて、
男子にまじってかちゃかちゃ配牌していた。
いったんうちはじめるといつまでもやめないので、
はやく飲みたい友人が、本気で怒ってしまったことがあった。


同じころ、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』を夢中になって読んだ。
覚えたての知識で、物語のなかの手牌を解こうとしたこともあった。
坊や哲、ドサ健、上州虎。
終戦後のすえた匂いの東京を、彼らの台詞や動きによって、自分なりに思いえがいた。
ただし『麻雀放浪記』とちがって、賭け麻雀はほとんどしなかった。
あの勝負の流れのなかに、身を置くのがひたすら好きだった。


麻雀のことを思いだしたきっかけはふたつある。
ひとつは職場の飲み会で「モーハン」(モンスターハンターというゲームの略称らしい)と
「盲牌」を聞きまちがえたこと。
麻雀?と言っておもわず右手の親指の腹を、盲牌するようにふりふり動かしたら、
そんな聞きまちがいをする女性はいないと断言された。
知るかと思った。


もうひとつは荻原魚雷『活字と自活』(本の雑誌社)の「『荒地』と鮎川信夫」の章で、
鮎川信夫が麻雀について書いている日記が紹介されていたこと。
それぞれが手牌を見ながら頭の中で筋をさぐるときの、あの澱んだような
でもけっしてとまることのない静かな「流れ」の感覚を、読んでありありと思いだした。

(略)この亡国的遊戯は、どこかしら私小説作法と似通ったところがある。
相手の手のうちを読むこと、表情の変化に気を配ったりすること。日本の小説家のいう
「大人」であること、つまり熟練によって、自分の位置、役割を知ること。(略)

田村隆一『若い荒地』(講談社文芸文庫)所収「一九四一年(昭和十六年)のAの日記」より


麻雀に夢中になっていたころは、自分も含めてみな素人の域を出ないから、
我慢づよく相手の表情や捨牌を見ていると、その人の癖というのが自然と見えてくる。
そしてふだん相手がどういう思考回路をしていて、どういう嗜好をしているかが、
手牌に如実にあらわれる。
それを分析して、その思考をかいくぐりながら、自分の手を地味に作るのが好きだった。
大きな役はないけれど、裏ドラがのってたんまり、というようなセコイ勝ち方もよくした。

ながいながい麻雀をしているみたいだ、とぼんやり今の自分を思った。
試しにインターネットでFlashの麻雀ゲームをやってみたけれど、ルールはすっかり忘れている。
感覚は思いだした。
周囲の手牌を注意ぶかくさぐりながら、自分の手をゆっくり作る。
大きな役がつかなくてもいい。自分の手をていねいに作って、いつかアガればいい。
アガれなくても、おおきく負けなければいい。

捨牌をじっとさぐりながら、見えない牌をできるだけうつくしく、わかりやすく
入れかえるような日々も、それはそれで嫌いではないのだ。
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by mayukoism | 2010-07-19 03:47 | 本のこと