乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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歌う人

きのうは前髪をすこし切って、ふちがみとふなとライブに知人とでかけた。

シアターイワトに行くのははじめて。
入口の行列のあいまに岡崎武志さん、ナンダロウさんの姿をお見かけし、ごあいさつ。
ビルのむこうの夜になろうとしている空に、そっくりな色のチケットをいただく。
暗い小さな入口で、ムギマル2の「マンヂウ」2個入り紙袋をいただき、ほこほこと席につく。

ゴゴシマヤの澄子さんが入ってきて、ごあいさつをする。
前のほうに岡崎さんたちがいらっしゃいます、とお伝えして小さな背中を見おくる。
ほんの少しゴゴシマヤで店番をまかされていた時期があり、そのときにはじめて、
ふちがみとふなとを聴いた。
帳場にはいると、CDプレイヤーにはたいていふちがみとふなとのCDが入っていた。
そのままかけて、毎回そのままかけるうちに、耳にくっついてはなれなくなった。

ちょっときゅうくつで、訪れる人びとの体温がかたまりになって渦を巻いているような、
小劇場のこの雰囲気はひさしぶりだなあと思う。
「マンヂウ」の組み合わせにはバリエーションがあり、知人は「黒蜜地につぶあん」と
「ヨモギ地にチーズ」、わたしは「ヨモギ地につぶあん」と「ヨモギ地にうぐいすあん」だった。
ほのかに暗いまま、ゆっくりとライブははじまる。
ペールエールを瓶で飲む。

7時半から休憩をはさんで22時まで、ながいながい冒険をしたような気分だった。
休憩をはさんで後半のはじめ、ふちがみさんがよいしょと靴をぬぎ、マイクを持ちながら
椅子をわたって観客席のまんなかまで来て、歌いながらステージのふなとさんの
声がとどくかをたしかめていた。音量もう少し上げて、と顔をきらきらさせながら言って、
また椅子をわたってステージに戻っていった。

そこにいるのはふちがみさんというたしかな身体なのだけれど、
そのあまりのかろやかさをまるごと空気のようだと思った。
空気は空間のすみずみまで満ちて、人びとの胸のうちにもいつしか満ちている。
ふなとさんのウッドベースは表にも裏にもなって、この小さな空間をくっきりとふちどる。
肩を抱くようにつまびくウッドベースを色っぽいと思う。
遠くてはっきりとは見えないふなとさんの指先や、弓がふるわす弦のうごきに目をこらす。

ふちがみとふなとの歌は、どうしてこんなに朝にも昼にも夜にも、春にも六月にも
裕ちゃんにもうしろまえにも、くるくるとゆるゆるとどこまでも自在になれるんだろう。

最後にリクエストに答えて『歌う人』をうたう。
ああ、ゴゴシマヤでこの歌をずっと聴いていたな、と思いだす。
わき水の最初の一滴のように、歌がその場ににじみだす。
ダニエル・ジョンストン『The story of an artist』のカバーであることをはじめて知った。
そのどうしようもなく、どうしようもなくうつくしい歌で、
コンパスが円をとじるようにライブは終わった。
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by mayukoism | 2010-05-26 20:00 | 聞いたこと

目でものを考える

視覚でものを考えている、と言ったらものすごくおどろかれたことが2度あって、
だからというわけではないけれど、そのおどろいた人のことをなんとなく忘れがたい。

視覚で記憶したり、思考することはごくありふれたことで、他人もそうしているのだと
あたりまえにおもっていたから、おどろかれたこっちがびっくりした。
視覚でなければどこで思いだしたり、考えたりするのか、と問うたら、
はじめの人は「しいていえば聴覚」と言い、ふたりめの人は「言葉」と言った。
へえええ、とあたらしい生きものを見るように目の前の人をおもった。

はじめの人は小説を書く人だったが、散文なのに耳にここちよいライムを聴いているような、
軽やかな文章を書いた。

ふたりめの人は本をたくさん読む人で、修学旅行にいちども行ったことがないという人だった。
中学校で参加せず、高校の時は事前に先生から「お前は行かないんだろ?」と言われ、
はい、と答えたら、そのまま参加しなくていいことになった、と言った。
修学旅行に行かなくてすむ年齢になってから会ってよかった、とおもった。

言葉も記憶も思惟も、わたしの場合はすべて視覚からはじまる。
今日のくもり空を見あげて、その灰色のグラデーションが一枚ひらりと前頭葉にはりついた。
なにが気になるのかわからない。なんどもその一枚をめくる。
めくっているうちに、またほかのイメージがあらわれては、消えていく。



いくら考えても出てこない正答。(試験中のほおづえ)
だれかがさっきまでここにいたらしい体温のあわさ。(日のあたる電車のシート)
だれひとりこちらを見ない雑踏の背中のかさなり。(池袋東口)
晴天より老成してこころが広そうだ。(高校の時に好きだった倫理のマルヤマ先生の背広)




ひとりよがりなイメージも、見えた景色になんとなく近そうなイメージも、
いっしょくたに頭のなかでくるくるくるくるこねまわしていると、
なんとなくひとつの言葉に落ちていく、フェイドアウトみたいな時間がくる。
落ちた言葉をつぶやいてみる。




曇天に指をさしいれてみる。




そうか、あの雲のかさなりの隙間に指で触れてみたかったのだなあ、と言葉になって
はじめて気がつく。そうやって思考はすべて視覚からはじまっている、のだけれど、
ごくたまにまったく別の経路で、わけもなくなにかをつよく思い出すこともあって、
こないだ勤務中にブックトラックの上で、裏表紙に貼られた取次会社のシール
(すぐはがれます)をはがしていたら、身体の中いっぱいに海の味がひろがったことがあった。

やわらかい冷たさ、もぐったときのはてしない暗さ、口のなかで消えない潮の辛さ、
浜辺の遠さ、太陽の白さ、それらすべてがとつぜんあざやかに身体をとおりぬけたとき、
海を見に行くことはあっても入ることはもう全然ないから、
なぜそんなことを思い出したのか自分でもよくわからなくて、
ただどこにもない想像の浜辺で、シールをはがした本を棚にかたかた並べながら、
子どものころの自分を沖に向かって走らせてみた。
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by mayukoism | 2010-05-19 16:18 | 言葉

詩の触れかた

アメリのような顔立ちの背の高い少女が、書棚の前でぼんやりと本を並べていた
わたしのかたわらにいつのまにか立っていて、現代詩文庫の『永瀬清子詩集』を見せた。

英語?フランス語?と話せないくせにいっとき身構えたが、彼女は流暢な日本語で、
キヨコ・ナガセのきつねの詩をさがしている、タイトルはわからない、と言った。

ネットで調べるとすぐに「古い狐のうた」という詩が出てきたので、詩文庫をめくったが
この詩は収録されていない。

店頭にある本のなかでこの詩を収録しているものが、アンソロジーでもないだろうか、と
手あたりしだいさがしてみたが、見つけることはできなかった。

結局、「古い狐のうた」が収録された『あけがたにくる人よ』を注文していただくことになり、
伝票に連絡先を書いてもらった。彼女はカタカナで自分の名を書いた。

余談だけれど、外国の方に連絡先を書いてもらうと、「7」の数字にはかならず
おそらく「1」と見分けるための短い棒線がひっぱってある。「7」。こんな感じ。
あの棒線を見るのがすきだ。

伝票の控えをわたすと、彼女は『永瀬清子詩集』をカウンターに置いたので、
買わなくていいのかと聞くと、これは持っている、と笑ってエスカレーターを降りていった。

7」がすきなことに理由をつけるなら、棒線一本の余剰が「あなた」と「わたし」の遠さをあきらかにしながら
そこにメッセージを感じられることと、単純に見た目をかわいいと思うから。

『永瀬清子詩集』をめくってみる。母語ではない言語の詩は、彼女のこころのどこに
どんなふうに触れたのだろう。たぶんわたしとは違う触れかたで、触れたのだろう。

めくっていたら、書き出しに惹かれて読んだ詩にこころが落ちた。恋、というものが
瞬間冷凍されたらきっとこんな一連になる。冷たくて熱くていずれにしても傷ができる。


仕事にかかろうとあなたが上衣をお脱ぎになった時
私には脱ぐと云うことの美しさが
突然はっきりわかりました。
あなたが焚火に踵をおかざしになった時
人は無限の曲線から成ることを
そして踵は心を無限に導くことを
あたらしく私の眼に彫りつけました。

(『現代詩文庫 永瀬清子詩集』(思潮社)所収「見えるものの歌」より一部)



アメリの彼女はこれをどんなふうに読むのだろうか、とまっすぐだったまなざしを思いながら、
いままで読むことのなかったこの詩を閉店後の店内でこっそりと書きうつした。
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by mayukoism | 2010-05-12 16:30 | 言葉

さみしさの深度

「悲しい」は表現世界においても権威があるけれど、「さみしい」は二流の扱いを
受けている気がする、と作家の川上未映子さんがある雑誌の連載に書いていて、
なるほどなあ、と思いながら、平日の美容院で髪を切られていた。
川上さんはさらに、「海辺の家々が潮風に傷んでゆくように心がじわじわとやられている」、
「よくわからないけど異様にはっきりした感情=さみしさ」を「慢性淋心炎」と
名づけていて、これはいいエッセイだなあ、と思ったのだけど、美容院で読んだのを
ざっとメモしただけで手元にその雑誌がないので、細部はまちがっているかもしれません。
白いサテン地のうわっぱりに、さっきまで自分の髪だったものが、するするすべっていった。



自分のさみしさはよくわからないくせに、他人のさみしさはときどき見える。
さみしさ、という感情を思うとき、胸のうちにひらける夜の空がある。
その空にはいくつかの光が点在して、あれは何座これは何座、と指先で光をつなげるけれど、
つなぐ指先がなければ、光はただそれだけのものだ。
つながらない、単体の、つながりたい、光る、とおい、見える、触れたい、手を伸ばす。
その、光に手を伸ばす腕の距離のことを「さみしい」と思う。
暗い空にうかぶまっすぐな白い腕は、いつも光にだいぶたりない。



さみしさは「いつもならしないこと」を平気でさせる。
さみしさは「ほんとうはいけないこと」をうっかりと言わせる。
さみしさの想像力ははてしなく深く、想像したさみしさにいつのまにか自分がからめとられている。
行動と行動のすきまの空に、他人のさみしさがぽっかりくりぬかれて見えたとき、
「あの人」のさみしさの形をただこの目に映しながら、
毎夜、枕元でおやすみなさいを言って、布団をぽんぽんとして、額に手をあてて、
眠るまで顔を見ていることができないのなら、たぶん手をのばしてはいけないのだ、と思う。



つながらないからさみしいのか。
つながりたいからさみしいのか。
生まれたときからさみしいのか。
死んだらその人のさみしさはどこへいくのか。
さみしさは形を変えやすいし、言葉になりにくいから、こころの準備もないまま
ふとのぞいてしまったさみしさが、おどろくほどの深度で見えることがあって、
自分の傲慢さに、ふいに頬をはたかれたような気持ちになる。







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わめぞblog「雑司が谷白想」5
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by mayukoism | 2010-05-05 16:14 | 言葉