乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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<   2009年 12月 ( 6 )   > この月の画像一覧

冬の火

暗闇に、
目覚めはじめたまぶたのように、
赤い小さな火がゆっくり灯って、
こちらに近づいてくる。

しばらくすると、
ゆらゆら黒い人影が見えて、
煙草か、と気づく。
赤い火とすれちがう。





役に立つ情報が
この身体にはおもすぎるので、
ときどき漏斗のように
感情ばかりが漏れていきます。

意味のない手紙を書く。

写らないカメラで撮る。

ただ風景を通過させる媒介としてこの身体を存在させる。

その通過証明のためだけに
言葉をつぶやけたらそれだけでよいのだと、
世界のためにちょうどいい言葉をさがしながら
わたしは思う。




ここは星雲のような土地。
あなたからわたしはたぶん見えない。
この場所で、
自分だけの火を所有する人に、
すこしだけ見とれていた。

そういう季節のことだ、冬とは。
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by mayukoism | 2009-12-17 00:29 | 言葉

二次元のパン屋

近所に「かいじゅう屋」というちいさなパン屋がある。
住宅街の裏道ぞいにひっそりとひらいている。
目をこらしてやっとわかる、まちがいさがしのまちがいのよう。
その裏道をなんどもとおっていたのに、気がつかなかったなあ、と思っていたら、
それもそのはずで、水・金・土曜日の16時から19時までしかひらいていない。
そりゃあ知らなかったはずだよなあ、と思いながら、
日暮れのはやくなったいつもの路地で、
前に並んだふたり連れが、パンを決めるのを待っている。

そういえばさっきみどりちゃんが来たんだけど、とふたり連れの男の人のほうが言う。
初老の夫婦、にも見えるがどこかにあまい距離がある。恋人どうしと言ったほうがちかい。
女の人はどちらかというとパンをえらぶほうに夢中で、背中であいづちをうっている。
きみちゃんが来るっていってたからさ、よかったよ、ひどい格好じゃなくて、と男性がゆかいそうにわらう。
まだ、まともだったわけね、と女の人がウィンドウの中のパンをじっと見ながら言う。
うん、と男性がうなずく。




初秋に、鎌倉に行った。
ひさびさに休みの合った知人と、とくに目的はなく列車に乗った。
かまくら、と指でなぞれば、なぞったそばから海になった。
鎌倉はどこから歩いても、いつのまにか海になった。
海までの道すがら、窓越しに見たパンがおいしそうで、知人を送りこんだ。
缶ビールをまだ飲みきっていなかったので、わたしは白い店の入口でビールを飲みながら待った。
知人がチョイスしたパンを、どれどれと歩きながら食べた。
噛めば噛むほど小麦の味のする固めのパンで、ぎゅっ、ぎゅっと何度もたしかめるように咀嚼した。
もういちどひきかえして、もっと食べたいとおもったが、そうすることはなかった。




待ちながら、そのことをおもいだしていた。
そのあとたどりついた海では、知人がとんびの落としものにおそわれたり、
橋をわたった江の島では生しらすを食べながらラジオに耳をすましたり、
スマートボールで「20」の穴にボールが吸いこまれると、20個ボールがばららーと流れてきたり、
ガチャガチャで「江の島」の切符とロゴのピンバッチが出てきたり、
記憶はあっという間に、かんたんに二次元になる。
「かいじゅう屋」のパンをながめているうちに、ひきだしの記憶がとつぜん三次元になって、
はじめてこの記憶が二次元になっていたと気づく。

「かいじゅう屋」の丸パンは今朝あたためて食べた。
知人には丸パンと、木の実のパンをあげた。
丸パンさいこーだ、と知人は言った。
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by mayukoism | 2009-12-11 01:31 | 生活

以前以後

ビニール傘は夜なら夜の、昼なら昼の屋根になる。
ビニール傘のようにありたい。



夜があけて、いつもの駅に降りたち、うすっぺらい風を頬にうけながら歩く。
橋から見る神田川に白い空がうつると、遠近の感覚が一瞬ゆがむ。

昨晩、ここでcomamonoyaさんと手をふった。
行くはずだったお店が貸切で、ふたりともろくに店を知らない。
どこでもいいよね~とふらふら歩きながら、それでもcoma(略)さんのおぼろな記憶をたどって、
べつの洋食屋をさがす。
奇跡的にたどりついたが、そこも貸切。そういう時期よね~と言いながら、
comaさんが入ったことがあるという、すぐそばのチェーン店にはいった。

ふたりでこんなふうに会うのははじめてで、そもそもどうして会うことになったんだったか、
よく思い出せない。
ゆるやかにゆるやかにあてのないおしゃべりは流れ、川のようになり海のようになり、
気がついたらとりわけたパスタを食べる手が完全にとまっていた。
すいません閉店なんです、とお店の人に言われてあわてて店を出る。
おしゃべりのつづきをしながら歩いていると、すぐに駅についてしまう。
comaさんこっちですよね、と言うとcomaさんはいちじくの実のような目をくりくりとさせて、
送っていく、と言う。わたしの路線もすぐそこなんですが。
そしてまたそこでおしゃべりのつづきをする。

そのひとがいるのといないのとでは、場の雰囲気ががらっと変わってしまう。
そういう影響力をもった人がいる。影響力にもさまざまな種類がある。
comamonoyaさんが場にあらわれると、みんながどこかで、あっcomamonoyaさんだ!と思う。
実際に声に出したりもする。
comaさんはひとの先に立ってうごくような人ではない。けれどその場にいるひとたちは、
たぶんどこかでcomaさんがどこにいるかをたしかめて、たしかめるたび大丈夫だ、と思う。
なにが大丈夫かはわからない。でもたぶん、なんとなく大丈夫なんだ、と思う。
そして、あのいちじくの目のようにまるい気持ちになる。
やさしいような、でも隙さえあればいたずらをしかけたいような、こどもみたいな気持ちになる。

噂話も、妄想話も、野望の話もたくさんして、もうそろそろということで手をふった。
わたしはリンゴと「にわかせんべい」をいただき、comaさんには魚雷さんの文章の載っている『ちくま』をわたした。


そうして夜があけて、朝になった。


通勤でとおる道に、昨日comaさんとおしゃべりした店がある。
今の店に勤めるようになってから、何度とおったか見当もつかないようないつもどおりの道で、
でも、この道沿いにある、昨日までは知らなかったあの店を、今朝のわたしは知っている。
地下に降りる階段で、やけに大きな音量で音楽が流れているけれど、でも店内に入ればしずかよ、
と言ったcomaさんが扉をひらくとしずかになった、そのことをわたしは知っている。
はじの席に座ると真上に明かりがなくて、comaさんの顔が半分やけに暗くなった、
あの景色のことを今日は知っている。

そうすると、いつもの道の見え方ががらりと、すこーんと、変わる。

この不可逆の感覚。
同じ道をなんども通とおったのに、あの店を知らなかった自分はあっという間にいなくなった。
知らなかった自分はどこへ行っちゃったんだろう。

店の前をいつもと同じようにとおりすぎながら、こころに昨晩の記憶を落として、
知らぬふりで、だれもいないはずの職場へ向かった。
神田川はあいかわらず白い空をうつして、まだうまく書きだせない便箋のように波立っていた。
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by mayukoism | 2009-12-06 03:32 | 言葉

文学は消耗するか

植物園のそばの図書館で借りた『ドリーマーズ』(柴崎友香著/講談社)を読了。
このなかに入っている『夢見がち』という短編はおもしろかった。
「夢ネタ」や「夢オチ」は禁忌にちかいものがあるけれど、この短編は、メインとなるある夢の話と、
そこにつながる「現実」の話にディテールとそれなりの牽引力があった。
個人的に苦手意識のつよい柴崎友香だが(でも読んでおく)、この作品集は違和感なく読めた。

並行して同じ図書館で借りた『どうして書くの?穂村弘対談集』を読む。
対談集だからすぐに読み終わってしまう、と思いゆっくり読んでいたらゆっくりすぎて、
あとに読みはじめた『ドリーマーズ』のほうを、あっという間に読み終えてしまった。

以前にこの日記で、いま書かれている物語について「初期吉本ばなな」を座標軸にして、そこから
どのくらいずれるか、どのようにずれるかに、物語の起点や終点が、いまだにあるような気がする、
というような書き方をして、こういう書きかたをするときの自分はたいていにおいて直感のみで喋っており、
だから批評や評論というものがまったく書けないのだけど、似た内容の発言を高橋源一郎がしていた。
長いんですが、これはすごく面白かったので引用します。

現代詩はそれ以前の戦前的なものの純粋な否定として出てきました。「荒地」派があって、つづく「凶区」のグループがあって、僕らはそれを全部同時代的なものとして、先行するものの否定として読んできた。(中略)ところが、具体的な例でいうと、吉本ばななが出てきたときに、これは何かの否定かというと、違うんですね。彼女はいわばわきから入ってきているんです。ある意味では、歴史の「外」から。吉本ばななは、純文学を読んで、その否定で出てきたんじゃなくて、全然別のジャンルのホラーを読んだり漫画を読んだりして出てきた。非歴史的な選択の結果なんですね。
非歴史的な選択をしてきた作家は多分どの時代でもいたんでしょう。けれど、彼女以降新しく出てくる作家の
基本的なスタイルが垂直の選択から水平の選択になったというイメージが僕にはあります。水平に、ジャンル横断的に、あるいは任意に自分の好きなものをとってくるということ。それは結局、浮遊しているイメージをとってくることと同じになったんですね。イメージには歴史性がない。たまたまそこにあるというだけなのです。(後略)


このあと、吉本ばなながデビューしたのが80年代半ばで、ちょうど「現代詩文庫」の刊行が始まって
完結するまでと重なる、というような話にもつながっていくのだけど、これは文学や表現だけの話では
なく、世代や社会などのさらに大きなシーンにも広がりうる話だと感じた。
吉本ばななをはじめて読んだのは中学生のときで、あのときたしかに自由になった感じはした。
重い荷物を背負わなくても、「いまここ」の自分で、言葉で、小説は書けるのかもしれないと思った。
時代や世代のことはまったく考えなかったけれど、これはわたしのものでわたしの言葉だ、と
吉本ばななの小説を感覚的にうけとめたのはたしかだと思う。

しかし、引用した上記の対談はいったいいつおこなわれたんだろうと初出を見たら、なんと2001年だった。
2001年に対談で話していたことを、わたしはいま感じて、言葉にしているのか、と思ったらひどく情けなく
なったのだけど、この本の最後の章でふたたび2008年に、高橋源一郎と穂村弘が対談している。
7年後の同じ二人の対談。以下は高橋源一郎の発言。今度はやや短めにします。

文学者の戦いは、言葉を持って現実と格闘するという戦いですよね。かつては一つの世代が共通の武器で戦うことも不可能ではなかった。それは共通の経験・共通の言語を持っていたからです。その経験や言語を共有できるというシステムが、ぼくの年代以降、機能しにくくなってきた。戦争があったとか、団塊の世代でいうと経済戦争があったとか。九〇年以降、言語化しうるような、書くテーマとして持ち上げられるほど強度がある共通の何かは多分持ちにくくなった。とすると、みんながばらばらに、自分が戦えると思う範囲で、戦うしかない。正規軍戦からゲリラ戦に以降した、という言い方が正確かもしれません。


「共有できるシステム」とは何なのか、という話になるとまた別の方向に話は進んでいくのだろうけれど、
とりあえず2001年地点からあまり事態は動いていないようだということはわかる。実感としても
動いているとは思えない。むしろ、さらに混迷している感じもあって、このあと高橋源一郎は
「ただ単に社会が便利になった以外に、五十年前の戦後の文学の重々しい「私」というのもよかったと
最近では思ってしまうところがある。」なんて発言もしていて、高橋源一郎にそんなことを言われて
しまったら、読者としては、いったいこれから先どんな小説を期待して待っていればいいのだろう、と
ちょっと絶望的な気持ちにもなってしまう。

「固定電話」を持たなくなって「ケータイ」をみんなが持つようになって、「固定電話」が近代で、
あのころはよかったなー、と気づいた人たちが「固定電話」のある生活に戻ろうとするかと言ったら、
それはまずない。「ケータイ」で「メール」を送りあって「twitter」の「タイムライン」をいちにちに
何度も確認して、それはどうしようもなく「いまここ」の世界の共通の認識であり、共通の言葉だと思う。
問題はこの変化に文学がまったくついていっていない、ということで、それに対して現実は、
驚異的に軽やかなステップを踏んでどんどんおもしろく、便利に即座に変化対応していく。

でも、「驚異的に軽やかな」現実にはかならずついてまわってくる闇があって、それが「死」だと思う。
人はいつか死ぬ。そのことは近代だろうと現代だろうと変わらない。現実の生活が便利になっても
死は絶対に便利にはならない。そのことを、いったいどんなやり方で受けとめればいいんだろうと
ずっと考えている。もしかしたら自分以外の大多数の人はそれぞれにかしこく「死」を受け入れながら
この軽やかな現実を謳歌しているのかもしれないけれど、どうも自分にはそれがしっくりこない。



うーん、ぜんぜん話がまとまらない。削除しようかと思ったけれど、ここまで書いたのでとりあえず
アップします。
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by mayukoism | 2009-12-04 02:32 | 本のこと

白米と夜

深夜に新米を炊く。

炊きあがった新米をほぐしながら、視覚を部屋の外の夜の中に置いてみる。

動きつづける明治通りをくだり、暗い窓の連なる路地をぬけて、

曲がり角にひとつだけうかぶ白い窓が見えたら、それがきっとこの部屋です。

生活のある部屋の明るさは、蒸気した新米の明るさ。

ひしめく新米の白さは、今日の月のあてどない白さ。

そう遠くないけれどまじわらない場所で、ひとりひとりが今日の月をさがして、見あげて、

吸い込まれたり遠回りしたりした。そしてたぶんもうねむりについている。

わたしは起きている。

起きて、小分けにした新米をラップにくるんでいる。

雨の音がする。

わたしの視覚はふたたび身体をはなれて、雨雲の向こうの今日の月をさがして、

電線をスタッカートでとびこえる。

目を見てちゃんと伝えられるように。

さようなら、夜。

さようなら、窓。

さようなら、今日の月。

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by mayukoism | 2009-12-03 04:01 | 言葉

名前のない時間

パソコンのほの白い画面を眺めていると、こんなにも人と人とが、言葉と言葉とが、
かんたんにつながることができるようになってしまって、いったいわたしたちはいつか、
この世界にさよならを言って、きちんと死ぬことができるのだろうか、ほんとうに?
と、ときどき思ってしまう。
薄手厚手の服を何枚もかさねて、かたくなな冬の風と会話できる姿勢をとる。

昼食をオーダーしたあと鞄をあけると、いくらまさぐっても財布がない。
お詫びしてオーダーをキャンセルしてから、昨晩から今までの自分の行動を振りかえると、
なくなるはずはないとも思えるし、いくらでもなくなる隙はあるという気もする。
つまり、鞄以外のどこにあるのか、見当もつかない。

来た道を徒歩で、列車で戻りながら、財布がなくなったあとの世界を想像してみる。
煩雑な手続きの数々はめんどうだけれど、なぜか少しだけわくわくしている。
財布がないということはなんと不安で、なんと軽やかなことだろう。
全世界を部屋にして、このドアを開け放つことがわたしにもできるかもしれない。

財布はあった。
毛布の下になぜだか隠れていた。
見つかれば見つかったで、ほっとしてふたたび部屋を出ると、はじめに部屋を出たときに見えた
朝の直線的な光は消えて、もう、一日を閉じていくような午後の円い日だまりが
いくつもエントランスに落ちていた。

目にうつる景色のアイテムは変わらないのに、自動販売機の前で休憩をとっていたつなぎの作業員は、
もくもくと材木を肩にのせる仕事にうつり、さっきはいなかった不動産屋の主人らしき男性は
入口の鉢植えを見ながら、こんなものを植えたおぼえはないんだけど、胞子がきっと
風に吹かれてここにきたんだね、いつのまにか生えていて、という話をおばあさんにしていた。
おばあさんは後ろ手に大きくうなずいていた。
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by mayukoism | 2009-12-02 15:39 | 生活