乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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<   2009年 10月 ( 12 )   > この月の画像一覧

きれはしのこと

まだ言葉になる前のきれはしのようなものが、
ひらひら、ひらひら、とあたまの中でひるがえっていて、
そのきれはしを言葉にうつそうとするとき、
そのきれはしに対して絶対的に嘘がつけない。

原稿を書きながら、自分のなかにそういうかたくなさがまだ残っていたことを知る。

つくづく自分は文章を書くのがうまいわけではない、と痛感する。
きれはしを言葉にしようとするとき、これだと思う文章に一発でたどりつけることは、
わずかなセンテンスであっても皆無と言っていいほどない。
だからすこしの文章を書くのに、途方もない時間がかかる。
イメージを何度でもあたまの中でひるがえす。
イメージと自分と言葉がぴったりとよりそうまで何度でもくりかえす。

本をあつかう仕事がたのしくないわけではない。
なにもないところから棚を作りあげたり、だれかのもとめている情報にたどりついたときは、
それはほんとうにうれしい。
本をあつかう以外の仕事にはたぶんつけないし、つきたいとも思っていない。

けれど、本をあつかっていればそれで済むかというと、商売は、ひいては書店はそうもいかない。
書店の規模が大きければ大きいほど、本をさわる時間は減る。
そうすると、自分がなんの仕事をしているのだったか、たまにわからなくなる。
真四角の計算機(しかもぽんこつ)になったような気分になる。

効率的な仕事ばかりしていると、自分の場合はなぜだか文章もうまくかけなくなって、
文章を書くために生活しているわけではないのだけれども、
自分の納得できる文章を書けないことほどくやしいことってない。
つくづく、わたしがほんとうにきちんと向き合って、向き合おうとできるのは、
文章と、これまでに出会った数人の、こころから好きな人たちだけなんだなあと思う。
今の仕事は、瞬間的にそういう気持ちになることはあるけれど、そこには含まれない。
だからと言ってどうあることもできないけれど、
ただ、そうなんだなあと、思っただけだ。
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by mayukoism | 2009-10-31 02:06 | 言葉

WAMEZOのこと

「wamezo」は、まわる遊具みたいだ。
愉快なことを動力にして、どこまでも、いつまでもまわりつづける。
愉快なことが多すぎるので、速度はどんどん増していく。
わらいながら、遠心力でふっ飛ばされないようにしがみつく。
それがまたたのしいので、わらう。
もう、だれがだれなのやらさっぱりわからない。
「wamezo」は人も本も猫も海も巻きこんで、ぐるぐるとまわりつづける。

NEGIさん邸で10月生まれを祝う会がひらかれ、あたたかい手料理をごちそうになった。

なにかを楽しみにする気持ちには、たぶんアルコールに似た成分がふくまれていて、
着く前から脳内無重力状態、そこへきてふわふわした足元をさらにざっばーん、とすくう
大波のような告白があり、興奮さめやらぬまま解散。
あのあとの部屋の片づけ、ぜったいに大変だったと思う。
NEGIさん、なにもせず帰ってしまってごめんなさい。
気分は月面散歩のまま、Uさんとふたり新宿で山手線に乗り遅れる。
次の列車が来るまでの20分くらいを、Uさんと食べものの話や瀬戸さんの話などして過ごす。
目白に着くと酔っぱらい3人がホームで待っていてくれた。ありがとう。

帰宅して、湯船につかりながら今日のできごとと、「wamezo」について考える。

大島弓子『四月怪談』の映画本(柳葉敏郎と中島朋子が表紙)をNEGIさんが見せてくれて、
ムトーさんと大島弓子の話をした。
大島弓子作品について話すムトーさんが、あんまりやさしい目をするのでうれしくなって、
好きな5作をあげるはずが何作もあげてしまう。
5本じゃないじゃん、とムトーさんはわらった。
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by mayukoism | 2009-10-27 06:34 | 言葉

twitter的日常その2

黒猫と目があった。黒猫の目は赤かった。お互いふりかえりながら、離れた。
たぶんわかりあえたと思う。

乗り捨てられたサドルのない自転車に、おしろいばなのつるが巻きついて、花自転車みたい。

『神田神保町古書街2010』には、ハルミンさんと塩山さんの、みひらきたっぷりコラムと
岡崎さんの中央線古本散歩案内が載っております。

しかし木村綾子さん、ううん(身をよじる)かわいいですね。

馬場のTSUTAYAはコミックレンタル店。じつはこないだから狂ったようにマンガを借りている。
20冊、1週間で1200円です。至福。

『まっすぐにいこう』のきらはうまく実力をつけましたね。育て方がよかったんだろうな。
『パティスリーMON』が予想外におもしろかった。刊行中。

『パティスリーMON』後半に出てくる「安藤さん」がちょっとムトーさんに似ています。
似てるよ、と知人に見せたら、「でもこのひとは女の人だ」と言っていた。あれ?

少女マンガの最前線→いくえみ綾
少女マンガの最先端→くらもちふさこ
少女マンガで自己啓発→槇村さとる

向井理が朝のテレビに出ているのをねぼけながら見た気がする。
声がよかった。でもめがねかけてなかったから、減点方式。

あだち充のマンガに出てくるすべての主人公級の男子が理想のタイプだと気がつく。

マツコの部屋、見てます。

中野重治と雑司が谷をむすぶものが『鬼子母神そばの家の人』以外出てこない。
全集の年譜には出てくる。
原泉の本がこないだ往来座にあった気がするけど、買いそびれた。

中野重治の詩集が読みたいと往来座ののむみちさんに言ったら、翌日に
のむみちさん→瀬戸さん→岡島さん→瀬戸さん→わたし、で立石書店の『日本の詩歌20巻』(中央公論社)を
いただいてしまった。中野重治、小野十三郎、高橋新吉、山之口獏!ありがとうございます。すごい。



葉脈を流れる水のゆくさきをだれも知らないように会おうよ



ふるいPCに入っている短歌を取り出さなくちゃいけない。
書いて、かたちになったものを必要以上に邪険にあつかってしまうところがある。

そういえば短歌のありかたとtwitterのありかたってちょっと似てる。

会社のための仕事なんて一生しない。

手の届くだれかのために仕事がしたい。



そのときは本当だった 食卓に水滴だらけのコップの無音
 
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by mayukoism | 2009-10-23 02:14 | twitter的日常

今日という日

図書館で借りたトートバッグいっぱいの本と、トイレットペーパーをかかえて、帰路をゆく。
気がつけば、部屋へとつづく階段のふもとの金木犀は、そしらぬ顔で緑にもどっている。
今年の花はみじかかった。
金木犀がおわれば、夜の風から鋭角になる。冬が準備運動をはじめる。  

昼間、ラジオ(TBSのキラキラ)を聴いていたら、今週はいちねんでいちばん穏やかな気候の
一週間になるでしょう、と気象予報士のササキさんが言っていた。
その前の道路交通情報では、アナミさんが、車の数は少なくなっています、現在渋滞はありません、
いずれの高速道路も順調に流れています。―高速、―高速、いずれも渋滞はありません、
―号線、―号線、いずれも順調です、と、言っていた。

このあと日の出会があるというので、昼間に研いだ新米を炊いてから出かけようと思う。
窓辺に干した知人のパーカーはまだ乾いていない。
ひょっとして明日はこれを着るのではないかしら、と、暑くもないのにエアコンをつける。
早く乾くのではないかと思って。

夕方のざわつきがまだ残る部屋に、炊飯器のぷす、ぷす、という音がときどきひびく。
ひとりでいると、お米を炊いているのをわすれて、なにか物音がする、と身構えてしまうことがある。
冷蔵庫をあける。きっと研ぎ猫さんが、またたくさんメインメニューを用意してくれているから、
なにも食べずに行こうと思うけど、とりあえずビールは飲みながらあるこう。冷蔵庫をしめる。

ばちん、と音がして白米が炊けた。蒸気口から米色の蒸気がもくもくと吹きだしている。
冷凍する分は小分けにしてラップに包み、ひょっとしたら明日の昼に食べるかもしれない分は、
お茶碗に入れたままラップをかける。
日の出会から帰ってくるころには、冷蔵庫に入れられるくらいに冷めているだろう。

ああ、これがどうしようもなくわたしの暮らし、と思う。

あまりにも寒いのでエアコンはやっぱりとめる。パーカーが明日までに乾くといいけど。
今晩はオリオン座流星群のピークだと言う。オリオン座とふたご座のあいだの空に、
明け方の4時ごろが見ごろだというから、きっと見られない。
眠ろうと眠るまいと、星はながれる。それだけのこと。それだけのことが終わらなければそれでいい。
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by mayukoism | 2009-10-21 19:38 | 生活

居候になりたい

将来なにになりたいの、と聞かれて、いそうろう、と答えたことがある。

空想のなかでわたしは男で、日本家屋の2階に間借りする。
階下から、ねえ、2階のおじさんはいつもひまそうだけどなにしてるひとなの?という子どもの声がする。
ときおり、間借りのお礼に扉のたてつけを直したり、棚を作ってやったりする。

未来になんのたしかなこともないから、居候は2階から夕焼けを見る。

手あかでいっぱいの自分の部屋より、他人の家のほうが落ち着くのはいったいなぜなんだろう。
お父さんのくせ。お母さんの好み。子どもたちの変化。
人と人とがより合ってつみかさねた暮らし。
家族でなくとも、一人暮らしでも、いっこうにかまわない。
一人暮らしの他人の部屋は、そのひと個人の生い立ちがゆっくりじわじわと、沁みこんで見えてくる。
食卓の上の知らないティッシュの銘柄を見て、なるほどなあ、と思ったりする。
根本的には変わらないはずなのに、そこに広がるのはおどろくほど記憶とは別の生活なのだ。
こんなにも別であることが、なんて心地いいんだろう。

自分が居候になりたかったことを、図書館で借りた『随時見学可』(大竹昭子著/みすず書房刊)を
読んでいて思いだす。

大竹昭子の小説は不思議だ。
砂のようにさらさらと乾いているのに、冷たさは感じない。
どこかに向かう一点を書こうとしていない。
出来事と景色が、おなじ重みでさしだされる。
そうか、写真という表現をまるごと言葉にうつしたら、こんな物語になるのかもしれない、と思う。
大竹昭子はぱらぱらめくるより、きちんと読んだほうがおもしろい。

巻頭の『本棚の奥の放浪者』は、旅先の友人の家で暮らす話だ。
部屋には大きな本棚があり、読む本が尽きると語り手は本棚をあさる。
他人の書棚の混沌とした並び。
本を引き出すたびにふくらむほこりと黴の匂い。
そこで見つけたある本にまつわる短い話。
この短編がよかった。

こないだ、ふらふらと早稲田散歩をしていたときに、この「ある本」を見つけて、
高かったので迷い、結局買わずに帰ってきてしまったのだけど、
やっぱり買ってくればよかった、といま思っているところです。
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by mayukoism | 2009-10-16 03:02 | 本のこと

くぼみから星を見る

どこにいてもここにいない。
そんな気分で日々は過ぎていく。
季節はうつろう。

信号との相性がいい日とわるい日というのがあって、赤信号がつづくとすこし身構える。
今日の自分は「流れ」とあまりうまくいっていないのだな、と思い、いろんなことをちょっと用心する。
占いも運命的ななにかも、さほど信じてはいない。
ただ、いまの自分がどうあがいても変えることのできない流れのようなものはあると思う。
その「流れ」は、これまでの自分の行動の蓄積であったり、周囲の他人の性癖や習慣の集合であったり、
もとをたどっていけばどこかしらにたどりつく、実体のある「流れ」であると思うけれど、
「流れ」はさまざまな要素をふくめて広大なので、いまさら小さな自分がどうこうしてもしかたない。

「流れ」のことを考えるとき、こころに浮かぶのは、『スティル・ライフ』(池澤夏樹著/中公文庫刊)の
はじまりの一節だ。

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる
容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに
立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。
世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。


池澤夏樹がどういう作家なのかあまり知らずに作品を読んだとき、この冒頭の文章は
超新星誕生の映像を見るように鮮烈だった。
池澤夏樹の小説ならいまでもこの作品がいちばん好きだけど、だからといって
イコール池澤夏樹が好き、ということにはならない。『スティル・ライフ』が破格に好きなのだ。
特定の問題意識や書き続けるための不変のテーマが、作品のなかでまだ明確にはなっておらず、
なにより言葉の選び方が少し揺れている、そういう時期にしか生まれない不安定さをかくした小説で、
そのわずかな不安定さが、この作品をくらくらするほどうつくしくしている。
『星に降る雪』は『スティル・ライフ』につながる小説だと思うけれど、
もう今ではまとまりすぎて上手すぎてしまって、そうなるとなんだかすべてが用意された物語のように
見えてしまう。これはたぶんに読む側のわたしの問題である。

「世界」に対して自分が立っている、というイメージはあまりない。立っているのでなければ
なんなのだろう、と歩きながら考えていて、そうだ「くぼみ」だ、と思った。

というのも、たまたま散歩の延長で訪れた古書現世で、祝・誕生日の向井さんが値付けをしていた
『東京人』のバックナンバーのなかから、1991年3月号の「東京くぼみ町コレクション」特集のなかに
雑司が谷が載っているのを向井さんが見つけた。へえ、どれどれと読ませてもらったら
この特集自体がとても面白く、特集以外にも川本三郎の野口富士男インタビューなどが
掲載されていて、新宿展用の商品だったのに、わがままを言っていただいてしまったのだ。

くぼみに水が溜まるように、
都市にも時間が佇み、
ゆっくり流れる町がある。


と、特集の冒頭に記されている。
佃島、本郷から神楽坂まで、「くぼみ町」はその町の歴史をなぞり、さまざまな形で存在する。
そして、その町のなかのもっと小さな、局所的なくぼみ。
山のようにそびえる存在にも、海のように荒れくるう存在にもならないしなれない。
ただひっそりとくぼんで、雨がふれば少しの水をあつめて、晴れればだれかをのぞきこませて、
つまづいてしまったらごめんなさい、の意地悪さもふくめて、
それくらいの「くぼみ」で「世界」と対峙できたらいいなあと、学習院へつづくゆるい坂をのぼりながら
ぼんやり思っていた。

『スティル・ライフ』の一節は以下のようにつづく。

 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。
きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の
境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある
広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と
調和をはかることだ。
 たとえば、星を見るとかして。

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by mayukoism | 2009-10-14 05:14 | 言葉

想像の水母

あたまの中の、変な位置に変な向きのソファがあって、
なんでこんなところにソファがあるんだろう、
これをこちらの、もっとちょうどいい場所に、こうゆったりとすえつければ
それだけでほっと息がつけるのに、それなのに、

という感じの偏頭痛。
金木犀がおとといから咲きだした。

図書館で借りた池田澄子『あさがや草紙』(角川学芸出版)を読んでいる。
短詩型の作家の散文は、ことばの選びかたがすみずみまでこまやかなので安心して読める。

「おもうわよー」の話がいい。
あのですね、ある島ではわかれるとき「さようなら」とか「じゃーね」などとは言わない。
「おもうわよー」と手をふるのだという話。
あなたがここからいなくなっても、ここであなたをおもうわよー、という、
こんなにうれしい別れの言葉があるだろうか、という話。
もうあなたに会うことがなくても。

池田澄子は戦場で父親を亡くしている。
だからなのか、俳句も散文も、視界のどこかにいつも死がある。
けれどそこに悲哀というようなものは、安易には見えなくて、
日常の続きのように、あれ?そこにいたの?というような自然さで死がある。
世界を見る目とそれを表現する言葉が同時に存在していて、
この人はそのことを、誤解をおそれずに言えば、たぶんたのしんでいる。
言葉を生むことで、死者とおしゃべりをする。

ピーマン切って中を明るくしてあげた

想像の水母がどうしても溶ける

口紅つかう気力体力 寒いわ


『池田澄子句集』(ふらんす堂)より


すごい短詩に会うと、ただすごい、と言いたくなる。いま、言いたくなる。
すごいんだよ、これすごいんだよ、と興奮しながら話して、
どこかどういうふうにすごいの?と尋ねられて、
うーんと、としばらく考えてみたけれど、どんな説明も上手にすべてを伝えられない、
とにかく読んでみて、これも、あ、これもすごいのこれも、ほら、と、
やっぱりすごいとしか言えない。
それじゃあ小学生だよ、と言われる。
まるでばかみたいなのであった。
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by mayukoism | 2009-10-09 02:30 | 言葉
ときどきは、速度のために本を読む。

くたびれた身体に流れをおこしたくて、考えながら読む本ではなく、
イオン水のように、ただひたすら言葉を吸収できる本を読む。
そういう本はすぐに読めるので、たいてい図書館でまとめて借りる。
そしたら、たまたま借りた本が、現代女性作家ばかりだった。

柴崎友香『星のしるし』(文藝春秋)。
柴崎友香、の小説はやや苦手だ。苦手なのにけっこう読んでいる。
読んで、やっぱりわからん、といつも思うのだが、この本を読んでひとつわかったのは、
柴崎友香の小説に出てくる登場人物に、どうしても共感できないのである。
共感するために何かを読むわけではないけれど、人々の行動や考え方がどうにも不可解で、
なんでそっちに行くのかなあ、などとぶつぶつ考えているうちにすとん、と物語は終わってしまう。
読みながら、ほのかな危険を感じて後ずさりしている自分がいる。
そういう意味で柴崎友香の小説というのは、「この人と友だちになるのはたぶん無理だろう」と
申し訳ないが思ってしまう取引先の人、のようなリアルさでわたしのなかに存在している。
このリアルさは、たしかにほかにないと思う。変な言い方だな。

中島京子『エ/ン/ジ/ン』(角川書店)。
中島京子は感性に流れない物語を書く。
出来事やその背景となる歴史をつみかさねて、その層のかさね方で物語をつくりあげようとする。
「ミステリー」に区分けされるような分野をまったくといっていいほど読んでいないのだけれど、
どちらかというと、ミステリーに書き方が近いのかもしれない。
ただ、物語の中ほどで引用される小説がやや長くて、そのあたりから読む速度が停滞した。
『均ちゃんの失踪』、『桐畑家の縁談』、『平成大家族』、この3作で描いたくらいの世界が、
物語の広がりとしてはこの人にちょうどいいのではないかと思う。
この小説のあとに出た『女中譚』も読んでおきたい。

山崎ナオコーラ『ここに消えない会話がある』(集英社)。
山崎ナオコーラの小説は…ちょっと困る。自己表現の「自己」と「表現」の間の距離があまりに近すぎて、
物語と言うより、作者の独白をえんえんと聞かされているような気分になることがある。
が、最近のナオコーラ作品の中では、これはなかなかよかった。
この人の書く「職場」は、おもしろい。同い年どうしなのにタメ口を聞く人と聞かない人、
だれにでも敬語の人、電話を切るときの「失礼します」だけが急に冷たくなる人など、
職場におけるちょっとした所作や会話で、人間がすこしずつあぶりだされていく。
よくわからないお伽噺調の短編や、こんな特別な私、をアピールした改行多用文章よりは、
はるかにいいと思う。
ただ、もしかしたらバリエーションはないのかもしれないな…ぎりぎりのところにいると思うので、
あまり尖らずに書いてほしいと思う。

こうして読んでいくと、1988年の『キッチン』による吉本ばななの登場というのは、やはり
おおきかったのだな、という感じがする。
吉本ばなな自身が融解して「よしもとばなな」になってしまったので、いまではあまり語る人もいないけれど、
どの作品も「初期吉本ばなな」を座標軸として、そこからどのくらいずれるか、どのようにずれるかに、
物語の起点や終点が、いまだにあるような気がする。
それはたとえば「いかにして人は純粋でありつづけるべきか」というテーマであって、
ここ最近の女性作家(定義がむずかしいけど、ここではいわゆる「文芸誌」に
掲載されそうな作家のこと)の作品は全体的に、このテーマの提示の仕方が
あまりにもわかりやすすぎるのではないかと思ったりする。
純粋もたぶん古びる。

あと、これと似たようなことを前にpippoさんと少しだけ話した気がするのだけど、
純粋であることと少女であることと、未熟であることとは、ぜんぜんちがうと思う。
おしゃべりのなかで「純粋」とか「少女」なんて言葉が出てきたら、
ちょっとその相手は信用できない。
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by mayukoism | 2009-10-06 06:36 | 本のこと

SLOW SEWING

どんなに世の中が便利になっても、
とれないボタンというのはないものだな、と
制服のボタンをつけながらかんがえる。

針と糸はすきだけど、ミシンはにがて。
はやすぎるから。
針をうごかしていると、
気まぐれにあちらこちらを向きたがるアンテナが、
針のひとさし、ふたさしにすーっと小さく落ちていく。

ボタンをつけながら、図書館で借りてきた
通崎睦美『届くことのない12通の手紙』を聴く。
マリンバの音はやわらかく、夜をじゃましないのでなんどでも聴く。
通崎さんの本はよく見かけるが、読んだことはなく、
読んだらそれはそれでおもしろいのかもしれないけれど、
なんとなくこのマリンバの音は、音として記憶しておきたいとおもった。
本を読んだら、ビジュアルが別に立ちあがってしまいそうな気がする。
夜をじゃましない音楽というのは意外とない。

たまどめをきれいにできる人間になりたい。
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by mayukoism | 2009-10-05 04:21 | 生活

わたしの傘

階段をあがってすぐのところにわたしの部屋があって、
雨のあとは昨日の傘が、
扉のノブにかけたままになっているのだけれど、
いちにちはたらいて帰ってきて、玄関の傘を見つけるといつも
不思議な感覚におそわれる。

雨の昨日は手の中であんなにもしたしかった傘が、
使わなかった今日ながめると奇妙によそよそしく、
傘だけが、昨日のつづきの中にまだ存在していて、
かたくなに今日を拒んでいて、

はたらいて帰ってきたわたしと、
ドアノブにいちにち置き去りにされていた傘に流れる
時間のちがいが、
階段をあがって見えてしまった傘をまるで
侵入者のように見せる。

いつのまにか遠くなる昨日と、その遠ざかる速度について、
ふだんのわたしがどれだけ不感であるかを、
ほんのりしめった傘に触れて思う。
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by mayukoism | 2009-10-04 04:45 | 生活