乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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夏のおわりのある一日

たまには今日のできごとを。

8月29日、土曜日。晴れ。
横断歩道でくしゃりと音がするものを踏んで、はっとした。
踏んだものを見てはいけない、ととっさにおもった。
この季節の変わり目にうつむくと、ちぎれた羽根や、ひっくりかえった足先などを見ることがある。
あれのような気がする。

毎週恒例の朝礼当番。
ずらりと並んだ従業員の前で、面倒なことや、どっちでもいいようなことを告げる。
面倒であればあるほど、声が少し高くなるらしい。だって、面倒なんだよ。
先生っぽいよね、と言われる。
学生のときにも、先生になればいいのに、と言われたことがあるが、
だれかの人生をまるごと背負うような、あんなおおきな仕事はできないと思った。

休憩中に売場から電話が入る。すわ事件か。
お客様注文の商品が棚にないと言う。それはこれこれこういういきさつで、このようになっています、
というのを1ヶ月ほど前に伝えたはずなんだけどなああ、と思いながら指示を出す。
帰りしなに田村の均一と、コミガレをのぞいたが、どちらも風がさらっていったあとのよう。
ひしゃげた三角コーンがころがっている。

ぽぽんっ、と肩をたたかれて見ると、豆さんだった。
仕事中は閉めているこころの窓がぱーんとひらく。
森有正の日記をご案内する。森有正の本は、ふたたび売れはじめている印象がある。
とおくからちかくから、豆さんの黄色いTシャツを、浜辺の旗のように確認しながら、売場をおよぐ。
こういうとき、もっとゆっくりとした時間を提供できたらいいと思うのだけど、むずかしいな。

土曜日にしては平穏ないちにち。
夏休みの終わりで、もうみんな出かけないのだろうか。
『音のない記憶 ろうあの写真家 井上孝治』(黒岩比佐子著/角川ソフィア文庫)を読み終えたくて、
ヒナタ屋に寄る。ごあいさつ。
本を読むことをわかっていて、あらかじめランプを持ってきてくれる。

人物のことを語るとき、風船のようにその内にあるものをふくらませるやり方と、
石膏のように外側からかためて、中の型をとっていくやり方とがあると思うが、この本は後者だと思う。
それは対象の人物が「聾唖者」であるということと、多分に関連があると思うけれども、
作品や証言からすこしずつ浮き彫りにされる井上孝治という人と、それを丁寧に追いかけた黒岩さんの
情熱の「型」、そのうつくしさにうたれた。

発話能力があらかじめ失われているわけだから、井上孝治本人の発言は、この本の中にほとんどない。
あるとすれば筆談によるやりとりや発表された文章だが、その数も多くはない。
言葉で人を理解しようとするのは、時として頭でっかちになる。
まず写真、そしてエピソード、周囲の人々が語る井上孝治という人の行動や表情、
そういった景色がすこしずつ集まり、いつのまにかまるごと人間のかたちをして、自分のそばにいる。

それは体温をもっていて、あたたかい。
会ったことがないのに、まるで会ったことのあるだれかのように、読んでいるとずっとそこにいる。
感知できるその不思議なあたたかさと、真正面から見つめあうような
黒岩さんの真摯な文章がひびきあうと、ふいにページがめくれないほど胸がいっぱいになっている。
そんな体験を何度もあじわった。

読み終えて、ヒナタ屋を出る。
夜の御茶の水橋で、聖橋方面を撮影している夫婦とおぼしき外国人がいる。
すれちがいざま、金太郎のような格好をした女性がいた。
金太郎のあの四角い前かけはなんというのだっけ。あれだけ付けました、というような格好で、
露出がもうぎりぎり。
あれはいったいどういった場所で、需要があるのだろうか。
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by mayukoism | 2009-08-30 04:21 | 生活

ふるえるプリン

せまい路地に高い建物がつづくと、むこうの空がほそ長く見える。
ほそ長い空はいくつもの電線でざっくりと区切られて、
あそこがわたしの、
あちらの台形があなたの取り分。
紙を切るように、あたまのなかでひとひらふたひら、空を分けていく。

お昼ごろまでねむっていたけれど、窓からはいる風がさらさらと気持ちいいので、
あるくことにする。
駅前にある中華料理屋の、麻婆豆腐定食がおいしいので、また注文する。
テーブルの上の無料のゆで卵を見て、だれもかれもが「板東英二」と言う。
おわんに盛られたいくつもの卵は、なぜだろう、すこしこわい。
となりのテーブルの大学生は、ラッキー、と言ってくるくる殻を剥いていた。

知らない道。
いっしょにあるく人は、わたしの知らない道をよく知っている。
そして、どこにいても東西南北がわかる。
あれは人間に標準装備されている能力なのでしょうか。
だとしたらわたしは、人間でなくてなんなのだろう。
だってどこにも書いていないじゃないか。

眼をとじてあるくよう言われたのでしたがってみたが、行く先を見ずに公道をあるくのは、
あたりまえのようにおそろしい。
端のほうにつかまり、おそるおそるあるく。
あんまりこわいので、言いつけにそむいて目をあけてみると、
小さい建物のむこうに丸い屋根が見えた。
給水塔だった。

小さい建物は、幼稚園だ。
子どもの声は聞こえない。夏休みか。
作業服を着た大人がドリルを動かしている。
幼稚園のむこうには給水塔をかこむ公園があり、公園側から、丸いドームを見上げる。
ソフトクリームがおどろいたように、ぽた、ぽた、と落ちる。
大きい。

ちかくにきてみるとこんなに大きいのに、案外とちかくにくるまで気づかないのだ。
給水塔のふもとになぜか、出身大学の卒業生の作品集があった。
ひろってみると、本の下にいた蟻が、何匹かのろのろと動いた。
知らなかったなあ、と言い、そのあとにつづく言葉もなく見あげる。
とおざかってふりかえると、住宅のあいだに冗談のようにひょいと見えて、
ふたたびふりかえると、建物のうしろにもう見えなくなっている。

給水塔は昭和5年に完成し、いまも災害用貯水槽として使われているという。
あのなかで働くひとはいるのだろうか。
塔の水を見ていると、どんな気持ちがするのだろう。
あの水は、どこからくるのだろうか。
たくさんの塔の水は、塔の水として、いつまでそこにあるのだろう。

帰りしなに買ったプリンに、スプーンをさしこんで、食べながら来た道をもどる。
スプーンが容器の底にとどくと、香ばしいカラメルがみるみるあふれた。
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by mayukoism | 2009-08-29 02:44 | 見たもの

記憶する身体

背もひくく、瞬発力があるわけもなく、なにより中学時代は美術部だった自分が、
なぜ高校でバレーボール部に入ったかというと、学校案内にあったはずの
文芸部が見あたらなかった。
小学校からバレーをやっているというクラスメイトが、その魅力をとつとつと語るので、
いったいぜんたいなにがそんなにおもしろいものなのか、と仮入部したら、
意外と楽そうだったので入部した。初心者もいいところだ。

(よくもわるくもわたしにはそういった、他人にとって意外、というより、
自分にとって意外なことを、穴に落ちるみたいにぽろっとはじめたがるところがある。
他人を、ではなくて、自分をどれだけおどろかせられるか、という。
他人はそれをたぶん無謀とよぶ。)

ところが、しばらくして顧問がかわり、バレーボール経験のある先生だったので、
練習はガラリときびしくなった。くる日もくる日も、汗くさいサポーターを右ひざにつけて、
とうぜんバレーボールのうまくない、身体的にも向いているとはいいがたい自分は、
サーブとレシーブを中心に練習する。
コートにひとり入り、何分間か、あちこちにほうられるボールをひたすらひろいつづけ、
コートの周りをとりかこんだほかの部員が、がやがやとかける声がかたまって聞こえる。

ひろっているうちに息がくるしくなって、足が帆をはったように動かなくなるのに、
あるところから急にボールがひろえるようになる。
さっきは届かなかったぽとりと前に落ちるボールに、スライディングでゆびさきが触れる。
からだがなにかを記憶して、なにかをこえていく、目に見えるこの単純な変化は、
本の世界では体験することのない感覚で、それはそれでおもしろかった。

試合はずっと控えで、ピンチサーバーやレシーバーとしてときどき出た。
チームメイトに迷惑をかけるのがこわくて、どんな練習試合だってすこぶる緊張した。
全国大会の地区予選で、一度だけ連続でサーブポイントをきめたことがある。
ほんとうにうれしかった。
他校の体育館の高い天井と、ネットのむこうに扉がひらいていて、
外の植えこみが白っぽく見えたことを、おぼえている。

バレーボールのワールドグランプリを、ひやむぎを食べながら、見るともなく見ていた。
ルールも変わったし、解説できるほどの知識ももともとないから、ただ試合のゆくえを
目でおうだけなのだけれど、つよいスパイクがくる直前や、ブロックのあいだを
ボールがすりぬけた瞬間なんかに、いっとき息をとめて、からだ全体で
ボールの力をコントロールしようとする、あの集中の感じをふと思い出して、
けれど吸い込まれるように、もう消えている。
この感触は、ほかのスポーツを見ているときにはうまれない。

いわゆる「体育会的要素」は、皆無にひとしいほど自分のなかになく、むかしもいまも
やっぱりどちらかというと文科系だとおもうので、高校時代をバレー部で過ごした、
というのが自分でもちょっと可笑しいのだけど、あんなことはもう二度とないわけだから、
まあ、やっておいてよかったのかな、とはおもっている。
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by mayukoism | 2009-08-24 01:07 | 生活

■お知らせ■

年中無休の書店ではたらいているので、

なかなか「わめぞ」の活動のお手伝いができず、

「わめぞ」から、こちらのブログを読んでくださっている方には、

お会いできる機会もあまりないかもしれないのですが、

そんなわたしに、古書現世の向井さんが「わめぞblog」での

連載の仕事をくださいました。

第1回が掲載されております。

タイトルは「雑司が谷白想」です。

ひと月に1回ほどの更新になるかと思います。

「わめぞblog」では、「わめぞ」関連のイベントのお知らせはもちろん、

ムトーさんの「先走り仙台ひとり旅」や

「王子の仙台日記」なども読むことができます。

どうぞ覗いてみてください。

よろしくお願いいたします。


リンク→わめぞblog「雑司が谷白想」
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by mayukoism | 2009-08-23 01:12 | ■お知らせ■

正午の神保町



打ち水の跡が、見たことのない地図のようにひろがっている。
地図はじわじわと、あたりをうかがいながら夜空になろうとしている。
均一棚の背表紙が、いっせいにハレーションをおこす。
自動ドアがひらくと、なだれこんできた人々の輪郭がからまりだして、
本なのか人なのか、反転した目玉ではもうわからない。
炭酸水はどうして昼間だけでできているのだろう。
手のひらで受けようとする。そうしなければいけない気がして。
まくらでないものをまくらにするとどうして気持ちがいいんだろう。
昨晩は大辞林にタオルをまいてねむった。
ひかりは、ひかり以外のなにも生まないねとだれかが言ったから、
そのひかりでたぶんあそこの島が買えますとおしえてやった。
日が暮れたらたぶん見えなくなってしまう、
ちいさいちいさいとこなつの島だよ。
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by mayukoism | 2009-08-21 01:31 | 言葉

妙齢女子の胸のうち

いちまいだけ余った手刷りの風鈴のはがきを、どうしようかと思案している。
うるんだような夏の夜の早稲田口をぬける。

古い小屋のような卓球場に心ひかれつつ、向かいの台湾料理屋へ。
今日は女子飲み。
ムトーさんが集めてくれた「妙齢女子の会」(とはだれも呼んでいない)です。
ムトーさん、畠中さん、版元Aさん、版元Kさん、とわたし。
あとから心は女子、の向井さん。

子宮の話から1Q84の話まで、妙齢女子のおしゃべりは、
オールわすれちゃったけど手でこげばいいよね的無軌道さで、
路地裏の海をただよう。
昨夜は畠中さんが、さまざまな話題をばっさばっさと抜群の切れ味で切っていた。
第1回一箱古本市で、開始1時間で畠中さんが10円セールをはじめた話を、
向井さんがあんまり上手に話すので、Kさんとわたしはねじれるほどわらった。

Kさんはムトーさんのお仕事を担当した編集者さんで、初対面だったのだけど、
まったく違和感なく、場になじんでいた。
まわりで勝手にKさんの人生プロジェクトがすすめられていても動じない。
すてきだ。また会いたいと思う。

Aさんは転職をさかんにすすめられている。
妙齢女子の欠陥、の話になると、大きな目をさらにきらきらとさせ、大きくうなずいていた。
Aさんの表情を見ていると飽きない。ゆっくりとしたコマのアニメーションを見ているようで、
いつ会ってもなにか話したくなる人だ。

畠中さんの親戚のおどろくべきつながり、の話になって、関係がややこしいので、
紙に家系図を書くことになったのだけど、レポート用紙の上5cmの、さらに上へ上へと
系図を書き足していくものだから、下がまるまる空白なのに足りない!と言い出して、
あたしが書く!と言ったムトーさんも、途中でスペースの作り方をまちがえて、
線を交差させたりするものだから、よりわけがわからなくなっていった。

そもそも鮎川信夫と言うべきところを、ずっと鮎川哲也と言っていて、
さらに鮎川誠、あ、まちがえた、などと言うものだから、途中でこちらもよくわからなくなって、
向井さんに指摘されるまで、ずっと鮎川信夫のつもりで、鮎川哲也と言っていた。
向井さんが言わなかったら、たぶんずっと鮎川哲也のままだったろう。

まだ東西線あるかも、と日付が変わっているのにつぶやくAさんに、
とっくにないよ!と向井さんがつっこみをいれつつ、早稲田口でみなさんとお別れをする。
そのあと、終電に間に合わないことがわかり、ふたたび戻ってきた畠中さんを
タクシーへ送りこむ向井さん、を置き去りにして、ムトーさんと神田川をこえる。
夜の川は水というより、それだけでうごめく一枚の布のようだ。
いつかムトーさんともっと飲みたいなあ、と思いながら、明治通りを並んであるく。
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by mayukoism | 2009-08-18 18:02 | 聞いたこと
犬の高い鳴きごえがちかくからずっと聞こえて、昨夜はうまく眠りにつけなかった。
朝まだき、目覚めない神保町の路地ですれちがった猫と、夜にまったく同じ場所ですれちがう。
まるい尾っぽをのったり、のったりとゆらす灰色のトラ猫は、文豪の風格。
犬の声は、今日は聞こえない。今夜の寝床は見つかったのか。
深夜にぼんやりと流しみる格闘技が、小さいころからすきだ。

短歌からはなれてしばらく経つけれど、実相観入ということについては、しばしば考える。
じっそうかんにゅう【実相観入】
斎藤茂吉の歌論。子規に発する写生論を発展させて、
単なる皮相の写生にとどまらず、対象の実相に心眼をもって深く観入することが
短歌写生道の真髄であるとする。(『大辞林第三版』より)

『短歌という爆弾』(穂村弘著/小学館刊)で、はじめてこの短歌観を知った。
『短歌の友人』は未読ですが、穂村さんの短歌論は短歌を知らなくてもおもしろく、
かつ実作に役立つ。
実相観入を語るためにひかれていたふたつの歌。

ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり 斎藤茂吉

カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした 早坂類


茂吉の歌はなんかもう言葉をこえて、すげーなー、としか言いようがない。
「よい短歌」とはなんだろう、と考えるように「よい文章」とはなんだろう、とときどき考える。
見たものを見たように言葉にしようと腐心するとき、行為としての実相観入を思っている。
言葉にする前に見ること。見ていると思ってもまだ見ること。見えたと思ってもまだ見ること。
いまの自分にできるのはがんばってそれくらいで、茂吉の地平ははるか遠い。

早坂類の歌を、穂村さんは歌論でよくひくのだけど、こういう「わかりやすくてすごい」歌を
もってくるのが穂村さんはとてもうまくて、『短歌という爆弾』にはいまでも付箋がいっぱいついている。
短歌にちかづかなければ、早坂類の名前はおそらく知ることがないだろう。
第一歌集『風の吹く日にベランダにいる』(このタイトルも圧倒的。河出書房新社刊)には、
ときどき上の歌のような、ヘビー級にすごい歌がまぎれている。
すごい短歌は一行で、ほんとうに頭をなぐられたみたいな衝撃があって、早坂類のみならず、
もっと暗誦されていいような現代歌人の歌が、じつはたくさんあるのだけれど、
歌の世界はなかなかひらかれない。
短歌からはなれてみると、あらためて自分がいた場所はまぼろしだったのではないかという気さえする。

十八歳の聖橋から見たものを僕はどれだけ言えるだろうか 早坂類


帰りに寄った古書往来座で、せとさんがあっ、と声を出して入荷を教えてくれた。
『コラム等』(松田有泉/有古堂)
正式の証明」のu-senさん出版販売。購入し、帰宅してなにげなくひらいたのち、一気に読む。

u-senさんの文章はしなやかだ。筋肉や関節があっちこっちにまがる感じ。
なおかつ伝えるべきところはちゃんとおさえてあって、視野の広い人だなと思う。
u-senさんのブログのあのめくるめく強烈さは、この雑誌ではやや抑え目だけど、
その分「もう一歩先のu-senさん」に触れられた気がして、おもしろく読んだ。
個人的には「山口昌男とベン・ジョンソン」にうなずき、「米子ゆき、高速道路」では
はじめて自分が運転席にいるような感覚をあじわい(免許もっていないので)、
また、マンガ「古書仙人」の3コマ目の、小さい向井さんが笑ってしまうほど
はげしく似ている(おもわすお腹に触れたくなる)のが、印象にのこりました。
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by mayukoism | 2009-08-17 02:56 | 言葉

浴室随想

ひとり暮らしとは、自分のシャンプーのにおいを忘れるということ。
たまに他人がシャンプーをつかうと、浴室のとびらを開けたとたん、においの風が部屋にあふれて、
あ、こういうにおいだったんだ、とおもいだす。
おもいだしてすぐに忘れる。
シャワーの温度を2度上げてみる。


お盆なので、仕事帰りに今日は、おばあちゃんの本屋に立ち寄った。
地下鉄で目黒線に乗り入れる。目黒を過ぎたあたりで、落ち着かなくなる。
目黒線になってずいぶん経つけれど、目蒲線の記憶が消えない。
「目」黒駅から「蒲」田駅までの列車だから、目蒲線というのだとおそわったこと。
終点であり始発である目黒駅の行き止まったホーム。
ビリジアン色の列車のいちばん前で、足元にすいこまれる線路をずっと見ていたこと。
流れていく景色が、子どもの目の高さで、頭の中にあまりにつよくのこっているので、
つるりとした画一的な駅がつづくいまの目黒線の、密封された感じにぜんぜんなじめない。

目蒲線がうごいてる。
何回もうごかした。

おじいちゃんの仏壇に手をあわせる、のを忘れてあやうく帰るところであった。
帳場が居間、というつくりの本屋なので、お盆のお供えやらもとくにしていない。
行きがてらに買った小さなサブレは、生きてるひとのほうが大事、と
おばあちゃんの明日の朝食になった。
付録についていたらしい豹柄の定期入れを、つかう?とにこにこ手渡されて、
どうすればいいのかちょっと迷った。
来てくれてうれしかった、と左手をふったおばあちゃんのしわの薬指に銀色の指輪が見える。
おばあちゃんちのシャンプーはメリットだった。メリットは髪がきしきしいう。
いまはどうだろう。


シャンプーをすすぐ。
うつむくと、泡だった湯が足の指のかたちに流れていく。
親指のふもとにひょろりと細い毛が一本生えている。
この毛の成長するちからを、身体のほかの部分に使うことはできなかったのだろうか。
そよそよと毛はながれた。
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by mayukoism | 2009-08-16 01:06 | 生活

身軽と気軽

身軽、と気軽、は、ひびきはたいそう似ているけれど、意味するところはことなる。
どちらかというと身軽になりたい。
気軽というのは、両面あってすこしあぶない。

迎え火から送り火まで、神保町の田村書店はお休みだけど、
小宮山書店のガレージセールはやっております。
昼休みにちょいとのつもりでのぞいたら、かかえこんでいた。
『風流尸解記』(金子光晴著/青娥書房刊)、の扉絵(写真)がすてきだ。
金子光晴のお孫さん、金子若葉作。
若いころの写真が格好よくて、『愛を旅する人へ』(はらたいら著/講談社刊)なども
おもわず購入し、袋はいいです、と言いつつ途方に暮れているところへ、
なんかいいのあった~、と、とつぜんNEGIさんが登場。
まちがった隠し扉から出てきてしまった忍者のような気持ち。
お知り合いに不幸があったとのことで喪服を着てらした。
不謹慎だとは思うのだが、黒い、細めのネクタイがぴりりときまっていた。

NEGIさんと手をふって別れたあと、建物のかげにしゃがんで本をしまう。
ぜんぜん身軽になれていない。

林芙美子を読む女性は、ひょっとしたらみな思うのだろうか。
ちょっと自分に似ている、と。
多分にもれずわたしも思った。
読みはじめたきっかけは、市川慎子(海月書林)さんの『おんな作家読本』で、
じつはいままで林芙美子を一冊も読んだことがなかった。
いまも『放浪記』は未読で、随筆しか読んでいないので語らないけれど、
高すぎる理想に日々の自分が追いつかなくて、ぐちぐちとしょうもない感じが、身につまされる。
けれども、そのしょうもなさも文章になると、芙美子の場合はどこかかろやかで、
読後もいやな印象はまったくない。そうよねえ、とうなずいていたりする。

『文藝別冊 総特集林芙美子』(河出書房新社)所収の「文学志望の娘」(木村徳三)がおもしろい。
改造社時代の『文藝』編集者で、芙美子の家に原稿をとりにいく話。
芙美子の持っている、ある「しょうもなさ」がとてもよく出ている。
岡本かの子、林芙美子、向田邦子、この3人がいまわたしの中でなんとなくつながっている。



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by mayukoism | 2009-08-15 04:11 | 本のこと

夜中のカナカナ

明治通りからすこしはなれたアパートに住みはじめて、1年が経った。

このあたりは案外と木が多い。
少し歩けば鬼子母神もあって、色と音の洪水の池袋駅からは、想像できないようなしずけさ。
休日は、鬼子母神の「ふくろうベンチ」に、ときどきよいしょと腰かける。
なににもさえぎられず吹きぬけていく風の、行く先に心の目をこらしてみる。

アパートには金木犀の木が植わっていて、定食に添えられた割り箸、ほどのせまい庭には
槿の花が咲いている。
花が咲く家というのは、いいもの。

夕方すぎに、上司がとつぜん職場にあらわれて、往来座に行ってきたよ、と言われた。
まるで約束していたみたいな口ぶりだったので、なんのことかと混乱した。
ええっと?と尋ねると、せとさんと旧知の仲で(そういえばせとさんもそんなふうに言っていたっけ)、
所用があり往来座に寄ったのだとのこと。

あなたの話もしたよー、と言われた。
おお、自分の職場と往来座がこんなふうにつながるとは思っていなかったので、
勤務中にはあまり思うことのない、いろんな景色が自分の中になだれこんできて、高揚した。
人と人とが、場所と場所とがつながるのって、ちょっとこわいけど、無性におもしろい。

せとさんはほんとうにいい人だよねー、と上司が言ったので、うんうんとうなずいた。
往来座はほんとうにいい店、いつ行ってもだれかがなにかお話してる。
レジが混みだしたので少ししか話せなかったけれど、じゃあまた、と言って上司は早足で去っていった。

もうすぐ日付がかわる時間。
いま、たぶん近くの銀杏の木のあたり、眠らないアブラゼミが鳴いている。
ときどきはミンミンゼミも鳴く。たまにカナカナも鳴いている。
カナカナの声は、ピアノの鍵盤の、めったに触れない、いちばん高いシの音。
カナカナが鳴くのを、ひさしぶりに聞いた。

往来座と、鬼子母神と、夜中にカナカナの鳴きだす木のあるこの土地を、わたしは好きです。

帰ったら、ここのところ夢中で読んでいる林芙美子の、見たことのない傑作集が
机のうえに置いてあった。
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by mayukoism | 2009-08-14 00:01 | 生活