乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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<   2009年 04月 ( 4 )   > この月の画像一覧

水色のさよなら

朝から強い風が吹いて、歩道につつじの花がまるごと、なにかの罠のように点々と落ちている。
つつじを踏まないように歩くことと、つつじを踏みつけて歩くことと、同じくらい傲慢であるような気がする。

沖縄へ旅立った、お世話になった取次会社のMさんからメールが来た。
Mさんは前のブログに書いた、タツノオトシゴのおじさんである。
奥さんが沖縄出身で、あなたが定年になったら沖縄に帰りたい、とずっと言われていたのだそうだ。
そしてほんとうに行ってしまった。

冬の終わりにメールを出すと、おまえ、ぎりぎりだよ、と返事がかえってきて、
もうじきに旅立つと言うので、あわてて約束をとりつけたら出発の前日だった。
おじさんばかりの送別会にまぜてもらった。
おじさんの飲み会はがんばらなくていいから好きだ。
もう、いっそのことおじさんになりたいくらいだ。

菅原克巳にゆかりのある方が幾人かいたのと、Mさんはたいへんな本読みなので、
まあどちらも持っているだろうなあ、と思いながらも、『陽気な引っ越し』(西田書店)と、
『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)を餞別に選んだ。

雨の湯島で迷ってしまい、Mさんが駅のそばまで迎えにきてくれた。
おそいっ、と笑われた。主役を来させてしまってスミマセン、と言ったら、いやいやと照れていた。

湯島の小さな居酒屋の2階を貸しきって、ゆるゆると送別会はすすんだ。
銀紙に包まれたとっておきの清酒がうやうやしく出され、Mさんがひとりひとりについでいった。
どなたかが歌謡曲の本を持っていて、そのなかから一曲、Mさんが歌うことになった。
Mさんはわざとぴーんと背筋をのばして笑いをとると、目を閉じた。


水色のワルツ
【作詞】藤浦洸
【作曲】高木東六

1.君に会ううれしさの
  胸に深く
  水色のハンカチを
  ひそめる習慣(ならわし)が
  いつの間にか
  身に沁みたのよ
  涙のあとを
  そっと隠したいのよ

2.月影の細路を
  歩きながら
  水色のハンカチに
  包んだ囁きが
  いつの間にか
  夜露に濡れて
  心の窓を閉じて
  忍び泣くのよ


忘れてはいけないと思って、きっと持っているだろうけれどこれ、と2冊の本をわたした。
やっぱり2冊とも持っていた。
『山之口獏詩文集』をふとひらいて、おまえこれサインしてくれ、と言うので、価値がさがりますけど、と
言いながらみひらきのところに名前を書いたら、『陽気な引っ越し』には全員で寄せ書きをすることになり、
ペンとともにまわされた。

菅原克巳の話になり、姉、高橋たか子さんの話をしたら、えらく驚愕された。
いや、これは往来座の瀬戸さんが…とは言えなかったので、ある古本屋の方がブログで書いていて、と
説明した。お姉さんの詩もとてもよいのだとその人は言っていた。
その他に『遠い城』の西田書店版の話や、小沢信男さんのお話などおうかがいする。

あなたの話はいつも聞いていた、とその人に言われた。
Mさんは、よくあなたの話をしていた、と。
そんなことMさんはひとことも言わないし、知らなかったです、と言うと、まあ、ああいうひとだからね、と
その人は笑った。

そのときはじめてまずい、と思った。自分の眼球にいっぱいの塩水が、表面張力でくっついていた。
でもそんな雰囲気じゃない。なにしろこれは「陽気な引っ越し」なのだ。

Mさんのもとに、その『陽気な引っ越し』が戻ってきた。数々の名前と筆跡をながめて、
あんがとございます、とMさんは言い、かばんに本を丁寧にしまった。
もうこれも着ないんだよお、と取次のくたびれた作業着を出した。

御徒町駅の改札で、Mさんと握手をした。
これで最後じゃないですよね、また会えますよね、と手を握って言った。
おお、またこっちに来ることがあるよ、そのときは連絡すっからよ、とMさんはいつもの調子で言った。
安心して手をはなした。ではまた、また会うときまで。気をつけて。

ホームで塩水がとまらなくなってしまったので、お手洗いに入って一本電車をやりすごした。
さよならに慣れることなんてできるんだろうか。それがどんな小さなさよならであっても。
たった一日のさよならでも、もしかしたらもう一生会えないさよならであっても、今日が昨日になることにさえ、
いつまで経っても慣れないのだわたしは。

Mさんから来たメールには写真が添付されていて、シーサーのある家が写っていた。
参加できなかったのだけど、混ぜてもらったみちくさ市のうちあげで、たまたま店先のシーサーを見たとき
そのことを思い出していた。
このシーサー、瀬戸さんに似てるよー、とだれかが言ったのだけど、だれが言ったのだったか、
もう思い出せない。
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by mayukoism | 2009-04-28 04:16 | 言葉

極私的マンガ夜話

こないだ、新刊入荷の箱をあけていたら、『ヤンキー進化論 不良文化はなぜ強い』
(難波功士著/光文社新書)が出てきて、帯に東村アキコの絵が使われていた。
それを見て、あ、東村アキコだ、と言ったアルバイトさんがいて、東村アキコネタで
もりあがったのだが、わたしが『ひまわりっ ~健一レジェンド~』(講談社モーニングKC)を
読んでいないと言うと、ではとりあえず3冊だけ、ということで翌日持ってきてくれたのだった。
さっそく読んで、わたしは久しぶりにマンガの登場人物に恋をした。
興梠健一(こおろぎけんいち)。反論異論は承知のうえで、うーむ、よわい。
どんどんボケキャラになっていくようだけど、よわい。好きだ。
ひとりの部屋で、いろんな意味でにやにやしながら読んでいる。

こどものころからひんぱんに通っていた祖父母の家が、マンガと雑誌しか扱っていない
小さな本屋であったため、マンガをタダで読む習慣がついてしまっており、なかなか買えない。
最近はさほど祖父母の家にも行けないし、かといってマンガを読まないわけにも
(精神衛生上)いかないので、月刊『コーラス』(集英社)だけは毎月かかさず買っている。
たぶんマンガがないと生活できない、と思うくらいマンガ好きなのだが、あまり胸をはれないのは、
読んできたマンガが主に「集英社系の少女マンガ」にかぎられているからだ。
『りぼん』にはじまり、『りぼんオリジナル』、『別冊マーガレット』、『マーガレット』、『ぶ~け』、
『YOUNG YOU』、『コーラス』と、みごとに集英社一本である。
いまでは青年マンガも、大島弓子などの昔のマンガも読むけれど、それはあとから付け加えられた嗜好で、
わたしのマンガ好きの軸にあるのは、間違いなく上記のマンガ雑誌たちなのだ。

『りぼん』を読んでいる女の子は大勢いたが、『りぼんオリジナル』までかかさず読んでいる子は
いなかった。
『りぼんオリジナル』の読み切りでそれなりに力をつけて、満を持して『りぼん』本誌デビュー、
というのが、当時の(今もそういう仕組みはのこっているのかな)新人漫画家の道筋だったが、
ずっとオリジナルから脱出できなかったり、いったりきたりの漫画家もいて、キャリアと実力と人気の
バランスのむずかしさを肌で感じていた。
マンガ論はたくさんあるけれど、ああいう日の目を見なかった少女マンガや、漫画家について
触れられているのはあまり見たことがない。単純に、本誌でデビューできない=対象となるマンガが
おもしろくない、というだけなのかもしれないが、当時の『りぼん』を下支えしていたのは
『りぼんオリジナル』で読み切りをせっせと書いていた新人あるいはベテラン漫画家だったろうと思うし、
ふたつの雑誌の関係そのものが当時小学生のわたしにはけっこうおもしろくて、
デビューコーナーを眺めながら、「このひとはいける」とか「このひとは絵がもう少しうまくなれば」とか、
ひとりでリストをつくって漫画家青田買いみたいなことをしていた。
デビューコーナーの審査員である先輩漫画家たちのコメントも興味深く、若手は当り障りのない
ほめ言葉のみ、ベテランは技術的なアドバイスや時には批判的なコメントもあったりして精読していた。

こないだ、目白の「月の湯」の裏手にある「秘境」(と知人が言っていた)に連れて行ってもらったのだが、
ここが古本と玩具と文具がとにかくぐっちゃりとならんだ(積まれた?)不思議なお店で、この奥の棚に
小学生のわたしがまさに『りぼんオリジナル』で読んでいた、いまや「消えていった」少女マンガが
いくつかあってちょっと興奮した。
高田祐、きたうら克己、北條知佳、竹村裕美、など。
読んでいたなあ。好きとかきらいとか考える前に、呼吸をするように読んでいたのだ。
またあんなふうにマンガを読んでみたいと少しだけ思う。
そしてマンガを買うのに躊躇しないくらいのお小遣いがあればと切実に願う。
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by mayukoism | 2009-04-20 04:37 | 本のこと
ぬぎすてられたパジャマを見て、そうか、この部屋を出たときは休日のはじまりだったのだ、と思う。
パジャマをぬいだとき休日はまだはじまったばかりで、このパジャマに袖をとおす今は休日の終わり。
休日が終われば、また次の休日を待つ。
これという理由があるわけではなく、なにか小さなことのつみかさねで、こんなふうに、
仕事がとてもつらい時期というのがある。
そういうときはできるかぎりものごとに誠実でありながら、じっとしているしかない。
夜にかくれて深呼吸をする。
深呼吸はいつだってじぶんのためにするものだ。



こないだとある飲み会で出た「印象批評」という言葉が頭にのこっている。
「いまの文芸批評は「印象批評」ばかりでだめだ」という文脈で使われていて、
たいていこうした飲み会でわたしは、かわされる単語の意味をよくわからずに聞いているが、
「印象批評」についてはなにか考えさせられるものがあった。
と言っても、わたしが気になるのは「印象批評」そのものではなくて、「印象批評」をひきだしている
文芸作品のことである。

こないだコクテイルで聴いた岡崎さんの奏でる歌の数々を聴いて思った「風景の鮮度」ということと
これは少しわたしのなかではつながっていて、というのもこれもその日に落札した、
『小説新潮昭和63年5月臨時増刊 文庫で読めない昭和名作短篇小説1946~1980』から
毎日、短篇をふたつかみっつ読んでいるのだが、ここに収録されているどの短篇も、
エッジがきいていてたいへん面白いのだ。面白いのだが、これをひとに説明しようとして、
はたとこの面白さを要約できないな、と思う。

「現代」の小説と、ここでは「昭和」の小説の何がちがうかというと「地の文」の緊密さだと思う。
今の小説の会話文のテンポは、それぞれに時代を如実に反映しながらかろやかであると思うし、
地の文も、主人公や語り手の感情を表現する分には巧みだと思う。
が、地の文で「風景」を書こうとしたとき、そこにはあきらかに筆力のちがいがあらわれている。
「昭和」の小説群は風景が物語をじりじりと焼きつくすのに対して、「今」の小説の多くは
出来事と出来事のあいだをつなぐツールほどの役割しか持ちえていないように見える。

心情をせつせつと物語るのは、もしかしたら昭和の時代より、技術的には上手くなっているかもしれない。
では風景を物語ることはどうか。わたしたちは自分を語るのにあまりに夢中になりすぎて、
風景を語ることに、さかのぼれば風景を「見る」ことに、あまりににぶくなってしまったのではないかな。

すばらしい風景描写については説明もできないし要約もできない。
そんなことを考えながら2008年4月号の『文學界』11人大座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」を
読むと本当にこれが面白くて、ええと、もし、現代小説を読まれる方で、この特集をまだ読んでいない方が
いましたら、1年前の雑誌ですけれども、これは読んでおくといいと思います。
ここからこの特集に話を広げてみたい気がしたのですが、この雑誌が現在知人の家にあって
手元にないこと(昨日読み返した)と、明日も特勤(おはようからおやすみまで仕事をする日のこと)だと
いうことを、いまぼんやりと思い出したので、うそ、ずっとそう思いながら書いていたら、
今ここで集中力が途切れたので、すみません、もう眠ることにします。
さいごに『文庫で読めない昭和名作短篇小説1946~1980』にも収録されているあの短篇から。


誰かに贈物をするような心で書けたらなあ。
(小山清『落穂拾い』より)



おやすみなさい。
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by mayukoism | 2009-04-17 02:47 | 本のこと
向田邦子刊行ラッシュである。

『向田邦子との二十年』(ちくま文庫/久世光彦著)
『向田邦子シナリオ集(全6巻)』(岩波文庫)
『向田邦子全集(新版)(全11巻+別巻2巻)』(文藝春秋)

生誕80周年とのことである。シナリオ集と全集は未刊。
『向田邦子全集』は以前函入り全3巻で出ていたと思うのだけど、いくら新装版とはいえ、
全部で13冊になってしまうというのはいったいどういうことなのか。
文藝春秋のサイトを見ると「読みやすい活字で」と書いてある。
やたらと大きい活字だったらいやだな。最近の講談社文庫の活字が読みにくくてしかたない。
亀倉雄策装丁のころの、活字の大きさが好きだ。
しかし13冊である。買うだろうか。買いつづけられるだろうか。

向田邦子に惹かれつづけてしまうことをうまく説明できない。
説明しなくても、向田邦子に関するイメージはだいたいいいものばかりだから、好きだと言えば
ああ、となんとなく納得してもらえるが、思わず、いや、そうじゃなくて、と言いたくなる。
向田邦子というひとは、けっこうずるいひとだと思う。
文章もそうだけれど、つじつまをあわせることがとてもうまいひとだと思う。
おんなを武器にしていないように見せることで、おんなを武器にしているところがある。
強引な部分もうそつきな部分も見える。
人間だ、と思う。とても「ふつう」の人間だと思う。

向田邦子自身も「ふつう」をたいせつにしていた。
向田邦子の考える「ふつう」はわたしにとってもたいせつな「ふつう」で、それは当然のこととして
ゆずれないのだが、どうも「ふつう」というほど多数派ではないのだ、と年を経るごとに気づく。
その「ふつう」の人間が、どう考えてもふつうではないあれだけの本とドラマをのこして、
ふつうでない死に方をしていなくなってしまった。
そんなはずではなかったはずなのだ。
運命などという言葉をかるがるしく使うこともないし、おおよそ信じてもいないけれど、
向田邦子というひとのことを考えるとき、わたしはうつくしいお椀におおもりにもられた白米の絵がうかぶ。
なにかがとっても過剰で、過剰すぎてひっぱられてしまった、そんな感じがする。

しかし、刊行ラッシュはいいけれども、向田ドラマの再放送とかスペシャルというのはないのか。
今見たらぜったいに面白いと思うのだけど。
久世光彦が亡くなったときにテレビで見た『寺内貫太郎一家』はあまりにおもしろくてびっくりした。
レンタルで向田ドラマを借りられる店はあるのだろうか。
DVDも、もう少し安くならないかなあ。

赤染晶子が文学界の先月号に新作を発表していたと言う。このひとはたぶん注目。
『うつつ・うつら』(文藝春秋)はちょっと冗長なところがあったが、「来るべき作家たち」シリーズの中では
なかなか面白いほうだと思った。
「来るべき作家たち」シリーズは津村記久子の芥川賞受賞でやっと少し注目されるようになったようだけど、
津村記久子は、ここで出す前に他でも何冊かすでに本を出していたから、「来るべき―」がデビュー作、
という作家が芥川賞のひとつやふたつとれば、文藝春秋はこのシリーズを出した甲斐があるって
ものだろうと思います。たぶん採算はとれていないだろうけど、新人作家を知るには
てっとりばやいし、評価できるシリーズ。
ただ、今、このシリーズの一覧を見ようと思ったら、文藝春秋のサイトでも、書籍検索サイトでも
全部はひっかかってこなかった。うーむ、せめて文春のサイトはこのシリーズ名で一覧を
見られるようにしたほうがいいと思います。

あと、5月末に伊井直行の新刊が講談社から上下巻で出るそう。「書き下ろし100冊」のうちの1冊。
上下巻というのがいい。楽しみだ。

佐藤伸治の命日がいつのまにか過ぎていたことにいまごろ思い至った。
今年誕生日がくれば、わたしは佐藤伸治の年齢を追い越してしまう。
音楽のことはあんまりよくわからないのだけれど、fishmansの歌はほんとうに好きだった。
野音の外で聴いたリハーサルの『WEATHER REPORT』をいまでも思い出せる。
空と地面がひっくりかえってひとつになっちゃうみたいな声だった。
あれが歌だと思った。
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by mayukoism | 2009-04-12 03:30 | 本のこと