乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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<   2008年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧

だいたい元来が怠け者なのだ。
なのになぜか外ではたいていしっかり者扱いで、期待に答えなくてはと、
なんとなく動きだけは機敏にしてみせたりする。
何が言いたいのかというと、普段と同じくらいの時間(午前3時くらい)に
就寝したはずなのに、目覚めたら昼の2時だった、という話。
勤務中の自分がものすごい働きをしているというわけではまったくないけれど、
無理にギアを入れていることは確かで、それが休日の異常な睡眠時間として
出ているような気がする。
とりあえず本を借りに外へ出る。

読了。
『蟋蟀(こおろぎ)』(筑摩書房/栗田由記著)
『花束』(朝日新聞出版/木村紅美著)
『ctの深い川の町』(講談社/岡崎祥久著)

すべて図書館本。
栗田由記も木村紅美も悪くはない。文章はうまい。けどそれだけだ。
栗田由記は川上弘美を超えられていない。木村紅美は角田光代を超えられていない。
この3冊の中では岡崎祥久が断然よかったけれども、いかんせん短すぎる。
岡崎祥久はあまり評価されていない、というか、評価の俎上にも
のせられてない感じがするけれど、この人はまず言葉選びのセンスがたいへんいい。
言葉選びと言えば長嶋有、のあざとさもないかわりに、いまひとつ辛抱が足りない。
もう少し我慢してきっちりと長編を書いてほしい。
あと、講談社は今こそ岡崎祥久のデビュー作『秒速10センチの越冬』を、
個人的には意味のわからない蟹工船ブームにもう思いきってえいとのせちゃって、
文庫化すべきだと思うのだけど、やはり売れる見込みなしと思われているのだろうか。
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by mayukoism | 2008-10-29 03:49 | 本のこと

夜中にそばをゆでる

いただいたそばをゆでる。
ていねいにゆでる。
「青苧(あおそ)そば」というらしい。
つなぎに縮(ちぢみ)の原糸となる苧麻(ちょま)の葉をつかっている、と書いてある。
苧麻、見たことがない。
ゆでるまえは、よく見る干しそばよりやや黒っぽく、細い。
そば粉がきれいにふいていて、一見、紙のよう。
熱湯の中へぱらりとさせると、やわらかく鍋の底へくずおれた。
茹で時間5分。
時折かきまぜる。わさびがないので生姜をする。いりごまを出す。
ざるにあげ、10月も末になって、だいぶ冷たくなった東京の水道水にさらした。
そばは、乾いていたときよりふとって、きらきらとひかる。
せっかくなので、こないだ友人の出産内祝としていただいた、イルムスの
ガラスの器にもりつける。

いただきます。

なにか草の、緑の味がほのかにするように思う。しっかりした味だ。
けれどもつるつるとたいへん食べやすい。
青苧のたんぱく質はにんにくの三倍、と書いてある。
繊維はにんにくの一〇倍、リンはにんにくの二倍。
にんにくが基準だ。
いやいや、ビタミンAはにんじんの一.六倍、カルシウムはいわしの丸干しの三倍…(つづく)
おお、時間をおいてものびにくい、と書いてある。それはすごい。
NHK-FMを聴きながら、おいしいのでどんどん食べる。
なにか、たどたどしい喋り方の女性がアジアの原油高高騰について話している。
外国の方だろうか。
海のような声の男性がやさしく相槌をうっている。
中学生のころ、NHK-FMが好きだった。夕食に呼ばれると聴けない時間の分を
録音していた。そのほかに車の中で聴くさだまさしのセイ!ヤングが好きだった。
ちりんちりん。いらっしゃい。
喋りがたどたどしすぎて、ちょっと心もとなくなったので、CDに切り替える。
昨日ライブで聴いた、ふちがみとふなとの「ふなとベーカリー」。
部屋に、昨日の夜中が来た。

ごちそうさまでした。

先日買った本。古書往来座にて。
『詩集 神田川を地下鉄丸の内線電車が渡るとき』(朝倉勇著/歴程社)
表の均一で見つけて購入。なんということもないのですが、これ、なかなかいい。
1975年10月31日から1976年11月17日までの神田川の、あるいはお茶の水橋の、
あるいは聖橋の、あるいは丸の内線の、景色。

十二月三日 水曜日 九時五十分 左

思えばこの一週間ずっと左の窓ばかり見ていた
混んでいて
右の窓側まで入りこめないのだった
人の肩ごしに窓を見る
川は よごれたみどり色である
岸の石垣が かなり上までぬれている
船でも通ったのであろうか
川っぷちに建つ家並のひとこころに
ちいさな三角の空地があって
そこに人工芝が植えられている
冬に入ったのにみどりのままでいる

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by mayukoism | 2008-10-24 02:26 | 生活
手元に、『文學界』2003年6月号がある。
これは特集が「サリンジャー再び 村上春樹」で、ちょうど『キャッチャー・イン・ザ・ライ』新訳を
刊行したばかりの村上春樹が、「訳者解説」を寄稿している。発売当時はもちろん、この特集が
目当てで購入したのだが、実はこの号にはもう一つ忘れられない作品が掲載されている。
それが「文學界新人賞発表」。受賞は絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』。

吉祥寺のサンマルクカフェで読んだ。たまたま巻頭だったので、なんということもなしに
読みはじめたのだけれど、正直、目当ての「訳者解説」よりも、この新しい作家の出現に
わたしは少しだけ興奮した。この人はいい、と思った。
政治と病、セックスと死。こうやって素材にするとありがちと言えばありがちなのだが、
素材の突き放し方に、この小説ひいてはこの作家固有の「唯一感」(辻原登)を感じた。
いいと思ったので、当時わたしの近くにいた小説好きな人たちに、この人の行方を
追っていこうと思う、と宣言した。で、今も追っている。

絲山秋子は物語作家ではない、とわたしは思う。物語作家とはなにか。ここではその小説の
なかで起こる出来事を語る、あるいは描写することに比重を置いている作家、とする。
絲山秋子が語ろうとするのは出来事ではない。その出来事を生きる人々の「存在」、
そのものを書こうとしている。「存在」を語るために、絲山作品に欠かせないキーワード、
それが「喪失」である。絲山作品の登場人物は、何かを強烈に失った場所から生まれている。

絲山作品の魅力のひとつにその「喪失」の書かれ方がある。失う失われる、ということについて、
女性作家の作品にありがちな陶酔や、もりあげや、過度な共感を促す甘い表現が
選択されていない。絲山はおそらくそれを、かなり意識的に排除している。「喪失」の前で
登場人物はクールに、時に滑稽にふるまう。そして、どうしようもなくうちのめされている。

共感を拒絶する「喪失」。
この、何もかもが失われてしまったように思える暗い場所で、登場人物はだれかに出会う、
あるいはだれかに再会する。それは現実には存在しない「だれか」であったりもする。
その邂逅をひとつのきっかけにして、「存在」の曖昧な手触り、のようなものを少しずつ少しずつ
回復させていく。この物語構造はどの絲山作品にもあてはまる。

そこに陳腐な「救い」を感じて、もしかしたら興ざめする読者がいるかもしれないとは思うが、
最終的に小さな、そしてシンプルな希望にたどりつく絲山作品のこの構造を、わたしは
ぎりぎりのところで支持する。なぜなら「最終的に小さな希望にたどりつくこと」こそが、
絲山作品の存在理由だと思うからだ。ただ、これはバランスとしてはあやういので、
これから先、たとえば「吉本ばなな」が「よしもとばなな」になってしまったような「転落」の
可能性はあると思う。どうかそうならないでほしいと切実に祈るばかり。

で、新刊の『ばかもの』(新潮社)を読んだ。絲山作品で、一等好きな作品は今まで
『ダーティ・ワーク』(集英社)だったのだが、これは誰彼薦められるような傑作というわけでは
なかった。むしろ傑作の前段階という感じだった。『ばかもの』は『ダーティ・ワーク』に
つらなる、『ダーティ・ワーク』よりも確実に完成された作品である。でも、わたしは、
絲山秋子はもっといけるし書ける、と(偉そうに)思っている。だから傑作とは言わない。

『SPA!』2008年10月21日号で福田和也が、『ばかもの』を絶賛して
「村上春樹を駆逐する存在になるんじゃないか」というような発言をしているけれども、
それはちょっと違うかな、と思う。村上春樹と絲山秋子とは、作家としての存在意義が
まったく違うし、いわゆる「文学」について、向かっている方向も異なる。
たぶん「それくらいすごい」ということを言いたかったんじゃないかと思うけれども、
そうやって乱暴に並べられてしまうことは、特に絲山秋子にとってあまりいいことではない。
絲山秋子をそんなところに置いてはいけない。絲山作品はもっと「個人」として読まれて
いいものだとわたしは思う。
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by mayukoism | 2008-10-21 20:11 | 本のこと

想像の地図

故郷に帰るひとを見送ったのち、鬼子母神の「御会式」へ足をのばす。
日蓮聖人の供養祭りである「御会式」は、日蓮の命日に合わせて
毎年10月16・17・18日に開催されるのだという。夜の闇に白い万灯が
ふわふわと浮かびあがるこの祭りの存在は、ついこないだ知った。

たくさんの屋台で迷路のようになった鬼子母神の境内を、偶然お会いした
Nさんの背中をたよりに歩く。焼き鳥の煙の向こうに見知った顔が見える。
さしだされたチューハイのプルトップをかしんと上げ、「なににパラフィンを
巻いてるんだか」などと言われているうちに、ひとり、ふたり、とさらに
知った人たちが集まってくる。頭の芯をふわふわとさせながら、
ここにいないひとのことを時々はぼんやりと考えたりもする。

東京郊外のH市で育った。
H市には「御会式」のような神社や寺が母体の祭りはない。
バス通りが土日の二日間歩行者天国になって、商店街沿いにずらりと屋台が
出るような祭りはあるけれども、実はほとんど行ったことがない。
ものごころついたころから、週末は本屋を営んでいる祖父母の家に行くのが、
なぜかわが家の習慣になっていて、すっぽかしてまでその祭りに行きたいとは
思えなかったためだ。

それでも「御会式」で、裸電球のあかるさにあふれた境内を歩きながら、
この風景をなつかしい、と感じたのは、件の祖父母の家の近くにあった
「八幡様」の秋祭りが、ちょうどこの「御会式」をこぢんまりとさせたような
お祭りだったから。このお祭りが毎年楽しみでしかたなかった。

とくにぺらりとしたプラスチック?の台紙に絵を描いて、それをトースターで焼くと
縮まってキーホルダーになる、というのが好きで、かならずいの一番にやった。
夢中になって色を塗るうちに耳鳴りのような喧騒が届いて、ほら神輿が来るよ、と言われる。
神輿が来ても子どもにはどうってこともないのだが、なんとなくそれが儀式のような気がして、
おとなしく見に行く。
こういうのもH市のお祭りにはなかった。

Mさんの「御会式」の話を聞いていると、ああ、ここで育った人なんだなあと思う。
Mさんの身体の内側に、この土地の景色がしっかりと根づいている。
幼いころ、思春期のころ、大人と呼ばれるようになってから、とその「景色」は
たしかな時間の流れとともに蓄積されて、生きている。息をしている。そんな気がする。

育ったH市を、故郷と思ったことがない。
いやだと思ったこともないけれど、なつかしいと思うこともあまりない。
近いせいもあるだろうけど、地元、という言い方も自分の中ではあまりしっくりこない。
故郷、というものをいままで感じたことがない。
ただ、今の自分のルーツだと思える場所ならば、少ないけれどいくつかある。
そのうちのひとつが、祖父母の(いまは祖母ひとりの)本屋のある街である。

故郷ってそんなに大切?と登場人物が発言する小説か随筆だかを、つい最近
読んだ気がするのだけど出典が思い出せない。
大切かどうかはわからないけど、うらやましいな、とは思う。
やがて「御会式」も終わり、故郷から帰ってきたひとが育った町の地図をもってきてくれた。
地図を広げて、ここに家があって、この川を毎日わたって学校に行って、ここに蕎麦屋が、
などと言うのをふんふんと聞きながら、自分のなかにもその「故郷」の地図をえがいてみる。
想像の「故郷」はとおく、ただどこまでも近しい。
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by mayukoism | 2008-10-21 04:39 | 見たもの
休日は、予定と目覚ましがなければいつまでも眠っていて、あとでひどく悔やむのだ。
昨日がそうだった。何回も目が覚めたのに、結局起きたのはごみ出しもできない
13時すぎであった。寝すぎだと怒られながら起こされた。

13時過ぎとあっては、まあ、はなばなしいことはできまい。とりあえず昼食(気分は朝食)を
知人の分とふたりぶん簡単に作る。

ごはん
野菜のトマト煮
厚焼き卵
サラダ
味噌汁(インスタント)
ビール(ビール?)

純粋に調理したのは卵のみで、トマト煮は前に作った分の残り、サラダは実家からもらった。
ビデオを観ようかと思っていたのだが、そんな時間もないのでちゃかちゃかと
身支度を整えて出かける。行き先は東急ハンズである。

文房具売り場で何の目的もなく、ふわふわの紙粘土(軽い!)や、本体の先の部分でこすると
インクが消えるボールペン(中学生のころ持っていたら、授業中、ノートに好きなひとの
名前を何回も書いていたと思う、ぜったい)や、ロールになっている付箋紙や、何種類もある
アクリルのカード立てなどを見ている。
いま貧乏だからよかったものの、小銭のあるときにハンズに行ったら、間違いなく
物欲とかごはいっぱいに満たされるであろう。ハンズめ。おそろしい。

「Humping Dog」というUSBアクセサリがあって、これが全種類いっせいに
動いていたのがたいへんくだらなくて笑ってしまったのですが、
その様子をかわいらしい女子高生と白シャツのメガネ男子が寄りそって、
屈託のない顔で眺めていたのが印象的でした。これ、Amazonで見ると、
対象年齢が「15歳」の犬種と「18歳以上」の犬種とある。なんか、どこか、リアル。

ユニクロへ。
普段服を買わないひとの買い物につきあうのはちょっと楽しい。
これとこれとこれが合う!と断言してみたり。ユニクロ、また少しいいものが
出てきている気がする。カットソーなんかは組み合わせでいくらでも使えそうだ。
自分の買い物は、貧乏でないときに来よう。

無印へ。
机や椅子や、座椅子や棚などの家具を見る。
空気清浄機がほしいなあ、と知人が言う。部屋が埃っぽいからと。
なにかが間違っている、と思う。
たぶん足の踏み場をつくること、そしてそこを掃除できるようにすること、のほうが
先決だと思う。

でも、たくさんあるのが本であれば、本でうめつくされた場所というのが、わたしは
かなり好きだ。俳句をやっていた祖父の書斎は、俳句雑誌や献呈された自費出版の
句集なんかでいっぱいだった。亡くなってからしばらくして、あらためてまじまじと
眺めてみたが、あそこはほんとうにお金にならない部屋だったな。思わず笑ってしまった。
たぶんまだ今もそのままになっているはずだ。

読了。
『海街diary2 真昼の月』(小学館フラワーコミックス/吉田秋生)
『明るい夜』(文春文庫/黒川創著)
『かもめの日』よりこちらのほうが好きだと思った。
他読みかけ本多数。
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by mayukoism | 2008-10-17 01:26 | 生活

空へと放りあげる言葉

考えなければいけないことがたくさんある。
休日や、退勤後の予定がことごとくうまっている。
締切のある仕事がつぎつぎ舞いこんでくる。
そのどれもが気乗りがしないもので、かつ多くの人を巻きこんで
(わたしは、ほんとうは、一人でできる仕事が好きだ)
やらざるをえないようなとき。

やはりどうしても小説を読みたがる。
それが一昨日、日曜の気分。

それで、休日の今日は雨の中、近くも遠くもない道のりを歩いて、
図書館へ向かった。
あ行の棚からゆっくり流して、すうっと入ってきた本を手にとっていく。
ぱらぱらとめくりながら、なぜ小説なのかを考えていた。

随筆の言葉はその向こうに書き手の姿を見てしまう。
言葉といっしょに作者の生活や嗜好や思想がくっついて見える。
そこに書かれている言葉は、どうしてもその書き手の所有物に見える。
読んでいる「わたし」の言葉にはとうていなりえない。

小説の言葉はもう少し書き手から遠い。
言葉は作者と読んでいる「わたし」の間で宙に浮いている。
わたしはそれを、その物語の言葉として読む。
そのとき、言葉はだれのものでもない。物語のためにある。

わたしは、たぶん言葉を、その言葉の意味だけで読みたいのだ。
言葉が意味する、感情なり状態なり景色なりだけを、純粋に抽出することで、
物語のイメージをなるたけ仔細に描く。
そのイメージの風景のことを、わがままに、わたしだけの言葉で思いたいのだ。
そうすることでわたしは物語を全身で経験する。
それはわたしをこの現実からはてしなく遠ざける。
その、遠ざかる作業こそがわたしにとっての「読むこと」だったのだ。
これまでずっと。
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by mayukoism | 2008-10-15 01:30 | 言葉

日記を書かない季節

日記を書かないあいだに、ようやくブラウス1枚では肌寒い季節になった。
それにしても街のひとびとは、秋のアイテムをファッションに
とりいれるのがはやい。
ブーツもニットも体感では暑いだろうが、こよみは秋から冬へと疾走。
感覚をとるか季節感をとるか。

日記を書かないあいだに、金木犀がいっせいにかおりだした。
あのつよいかおりが好きかと尋ねられたら、どちらでもないと
答えるだろうが、嗅覚がかおりをとらえたとき、とっさに
かおりの出所である樹をきょろきょろとさがす、その作業は好きだ。
ぽてぽてとしたオレンジの小さな花弁のかたまりを確認して、
これよこれよ、とひとりうなずく。
こないだ、住んでいるアパートの階段を降りたところで、ふいに
つよくかおったので見上げると、これが金木犀だった。
階段ののぼりくちに樹が植わっているのは毎日見ていたが、
金木犀だったとは気がつかなかった。
そうか、わたしは金木犀のあるアパートに住んでいるのか。

日記を書かないでいたのは、しばらく部屋に負傷した兵士をかくまって
いたためであった。
負傷した兵士はたくさんのビデオをお借りしてきていて、いくつか古い
日本映画を観た。
印象に残ったのは川島雄三監督の『洲崎パラダイス 赤信号』と 
成瀬巳喜男監督『流れる』のカットのうつくしさ。

『洲崎パラダイス 赤信号』は遊郭の中でなく、遊郭の入り口の
飲み屋が舞台であることがたいへんにいい。そして男も女も
それぞれにどうしようもなくだめなことが、切実にいとしい。
川島雄三の映画は『わが町』もよかった。
『幕末太陽傳』は途中で眠ってしまったのでもういちど観たい。
成瀬巳喜男の『流れる』はワンカットの構図が終始完璧に見えた。
とぎすまされた刃物のようなうつくしさ。
成瀬巳喜男作品は、自分では好きそうな気がしたのだが、実際は
川島雄三のほうが好みだった。
めちゃくちゃだけど、描かれた人間に体温があるのだ。

これらのビデオを観たあとで、街を眺めるとどこかくっきりとしている。
こんなふうに映画を観ることは本当に久しぶりであることを思い出した。
自分で思っていたより、わたしは映画を必要としているのかもしれない。
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by mayukoism | 2008-10-13 03:39 | 生活