乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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ついにドトールで挨拶されるようになってしまった。

どこで、なにを食べようかと、かぎられた昼休憩の時間に思い悩むのがいやで、
いつも同じドトールに行く。
いつもチーズトーストと紅茶(ミルク、砂糖付き)を頼む。
最近はそれも覚えられている。

ドトールではしゃぐひとはあまりいない。
ドトールでくっつきあう恋人どうしもあまり、いない。
なんとなくだれもがひとりで、なにかを我慢している感じがする。
なにかに耐えながらドトールにたどりついて、すこし息をつく。
ひとりひとりが丸く閉じていて、むやみに他人の領域を侵さないから、
ドトールと、ドトールに来る人たちはきらいじゃない。

ドトールで、『相聞 文学者たちの愛の軌跡』(近藤富枝/中公文庫)をめくる。
巻頭に会津八一と、八一の弟の妻の末の妹 (この関係を一言で呼べる名称って
あるんですかね) 高橋きい子の物語。
八一の言動の面白さと、それに寄りそうきい子の姿が心にのこり、休日、八一について
ほかの文献をざっと当たってみたところ、その短歌観にひどく惹かれた。


「歌はわづか三十一文字の短いものであるから、つい手軽に手が出したくなるのか、
作る方も沢山に作りたがるし、読む方も気軽に、一日に何百首といふものに
目を通すことを何とも思はない。そこで、ものが投げやりになる。従つて一首づつに
あまり手をかけてゐるわけには行かないと云ふのが一般の風ではなからうか。
まことに面白くないことである」
(「西大寺の邪鬼」)

〈『新潮日本文学アルバム 会津八一』所収 「少なくしかし深く」(佐々木幸綱)より孫引き〉

以前に短歌を詠んでいたことがある。結社にも参加していた。八一は結社雑誌には
関わらなかったという。
歌を詠むとき。

何かを目にする。
するとしずくのようなものが自分の内側にぽつん、と落ちる。
しずくに名前はない。ただその落下の感触があるだけ。
その感触に少しずつ言葉を付けていく。
入れ替えたり、思いなおしたり、遠ざかったりしながらかたちを作っていく。
はじめの感触を自分の中でぎりぎり鮮やかにとどめながら、整えていく。
その工程にはかなりの時間を要した。わたしの場合。

しかし慣れると、言葉の並べ替えでそれなりの歌を詠むことができてしまったりする。
よく言われることだが、自らの歌の模倣もやはり出てくる。
とにかく提出することが大事だ、と言われてそういうものだろうかと思いながら、
気張って詠んでみたけれど、頭の中が「五七五七七」でいっぱいに
なってしまい、途中で息切れしていらい短歌から遠ざかっている。
ほんとうに早く詠めるひともいるのだが、だめだった。できなかった。
だめだったことが、ノイズのように気になっていた。

八一の、読み手に容易に解釈させない、あのひらがな書きのうたの次元には
とうてい近づけるものではないけれど、うたに対するそのかたくなな姿勢を知って、
ノイズが少し晴れたように思ったのだった。

それで久しぶりに歌を詠んでみました。
出来のいいものではないけれど連作ができそうな歌だ。



画の中の八一のせなにあるはずの海へ故郷のきみを泳がす
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by mayukoism | 2008-05-31 01:08 | 本のこと