乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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カテゴリ:生活( 88 )

久しぶりに料理をする。
気持ちが痩せていると、お勝手にも立てない。
ずいぶんまえに友人から借りた料理本から2品、「牛肉とアスパラガスのピリ辛いため」と
「香味野菜たっぷりの刺身サラダ」を、スーパーにあった材料にあわせてアレンジしてつくる。

夕方のスーパーで牛肉を選んでいると、安くしましょうか、と背後から声がかかった。
どれくらい?と尋ねると、半額…はきびしいな、380円でどうでしょう、と言われたので、
わーい、と小躍りしたい気持ちをおさえて、パックを差し出した。
「SALE!」の黄色いシールにマジックをすべらせて、お兄さんはやや遠ざかった。

ふむ。
これがこれだけ安くなるのなら、もう1パック買っとこうかしら。
そう思って、あの、と声をかけるとお兄さんは苦笑いで、もう1パックを350円にしてくれた。
わーい。
お兄さんの気が変わらないうちに、早足でレジにむかおう。

お勝手は苦手だった。
母親が料理上手で、ひとりでなんでもやってしまう。手伝おうとしても満足にできないので、
かえってよく怒られた。それがいやでお勝手にはまったく寄りつかなかった。
ひとりで暮らすようになって、素材の正しい切り方も、だしのとり方もよくわからないけれど、
えいっといきおいでつくる料理を、まあまあおもしろいと思えるようになった。

テーブルのそちらとこちらで知人と箸をつつきながら、アニメ『時をかける少女』を見る。
2006年、いったい自分はなにをやっていたのだったか、このアニメが話題になっていたというのを、
まったく知らなかった。途中から見たのだったけれど、いやはや、ものすごくよかった。
あまりにも集中して見ていたので、笑われた。ちょっとDVDがほしいと思うくらいだ。
名づけようのない少年少女の時間というのは、どうしてあんなにやさしく見えるんだろうなあ。
現実はやさしいばかりではなかったけれど。
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by mayukoism | 2009-08-13 00:30 | 生活
働く、ということを愉しもうとする自分と、逃げようとしている自分とがいつもいて、
ふたりの自分はときどき果てしなく遠ざかっていく。

目の前にやるべきことがあれば、それをなるたけ完璧なかたちで遂行しようと考える。
そのために必要な準備をして、ときには慎重に、ときには勢いでとりかかる。
それだけのことだ。それだけのことがつみかさなって、なんとなく巻きこまれている。
なんのためなのかよくわからない。
でもこれをつみかさねないと、暮らしていけないのだということはわかっている。
目の前の、たとえば650円のあじのひらき定食を食べたいと思ったとき、
食べるためには、あじのひらき650円分の余裕が出るまで働かなきゃいけない、
働くという行為でしか、いまの自分はこのあじのひらきと向き合えない、と知ったとき、
自分の中の「何もなさ」が、はじめておそろしくなった。それは28歳の夏だった。
その後、運よく縁のできた会社に入って、毎月決まった日数を働いて、
決まったお給料をもらっているけれど、いつまでたってもあの「何もなさ」は消えない。
人件費を減らされていくことに不満を言う人、自分の持ち場の大変さを主張する人、
さまざまな人の話を、真剣に聞かなければ、と思う。
ときには自分も従業員の代表として、そういったことを主張しなければ、とも思う。
でも、できない。
する気がおきない。
あなたが信じている「それ」はふいに消えたりもする。あなたが思うほど「それ」は
あなたのことを考えていない。そしてそこには、本当は「何もない」かもしれない。
「何もない」かもしれない、と気がついてしまったときのこわさと比べてしまうと、
会社の中で自分の立場を主張したりすることに、まったく真剣になれなくて、
そのときは真剣な人たちに申し訳ない、とも思うが、こればっかりは
もうどうしようもない気もする。たいがいの場面でけっこうひねくれている。

少女であるから純粋だなんてすこしも思わない。
不器用だから純粋であるとも。
世の中の大部分の人々が暮らしていくために働いていて、同じように暮らしていくために
自分も働いて、そこからでしか見えないものがきっとあるはずだと思った。
要領がよかったり、見栄をはったり、ずるがしこかったり、攻撃的だったり。
だからと言って純粋でないとは思えない。
それをしないから純粋であるとも思えない。
ただ、カーテンのついた一人の部屋からは見ることができないものを、自分の足で
見に行きたいとは思う。
それのひとつが働くこと、であるのだけれど、どうしてもアルバイトに注意をうながさなければ
いけない事態が起きて、別室でふたりまとめて教え諭す、ようなことが起きると、
茹ですぎたほうれん草みたいにくったりとくたびれたこんな夜は、もうこのまま一生
だれにも会いたくない、と思ったりもする。
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by mayukoism | 2009-08-07 02:40 | 生活

はじめはDだった。

つぎにSだった。

たのまれた原稿を仕上げなければと、伊集院光の「深夜の馬鹿力」も聞かずに、
パソコンをぱちぱちしていると、~で、の「で」が画面に出てこない。何度打っても
「え」になってしまう。

???

キーボードに埃でも入ったか、そういえばさっき、「スーパーカップバニラ」のふたを開けたとき、
付着していた氷のかけらが、ちょうど「D」のあたりに落ちていった。
ふっとつよく息を吹きかけて、爪楊枝でキーのすきまをこしょこしょとする。綿ぼこりが
するんと出てきた。

ひとしきりキーボードの清掃を終えて、ふたたび「で」を入力する。
すると、押してもいないのに、ddddd…と画面にdの字が走りはじめた。
わっ、こわい、霊?などと、霊感もないくせにおびえながら、とりあえずウィンドウを閉じた。

じつはこのパソコンはものすごく古い。
知人に、つかえない!と泣かれるくらい古い。
OSはWindows Meで、保証書を見ると「01年8月」と書いてある。ちょうど8年
使っていることになる。人間で言ったら、相当におぼえのわるいおばあちゃんである。

でも使えるのだ。
CDもDVDも動かせないけれど、ネットやメールやブログはできる。
それ以外なにも要求しないから、あなたにそこにいてほしい。(先立つものがないから)
わたしはこの老パソコンを、なるべく刺激をあたえないように、おそるおそる使いつづけた。

ところが「D」である。
みたびウィンドウをひらいて、「で」を入力すると問題なく表示された。
ほっとして「で、書店の」の「しょ」を入力しようとするとこんどは「しょ」が出てこない。
「しょてん」と何度打っても、「よてん」になってしまう。
「よてん」、よてん、と道端にねころがってしまうよっぱらいのようなひびき。
原稿がすすまないことにうんざりして、とりあえず再起動する。

……

まっくらである。
まっくらな地平に白いカーソルが、希望の出口のようにまたたいている。
が、出口にはたどりつけない。
パソコンが立ちあがらない。

???

キーボードに触れるとパソコンがわめきだした。
びー、びー、びー。
びっくりして指をはなしてもまだわめく。
びー、びー、びー、びー、びー。
あきらかに緊急事態の音である。
おどろいてぶちっと電源を切ってしまった。

たいへんなことに!と電話ごしに知人に音を聞かせると、お亡くなりになりましたね、と言われた。

と、いうわけでパソコンを買いかえます。
しばらく更新できない期間があるかもしれませんが、携帯電話からがんばってみます。
ここからはどなたかわからないのですが、ごめんなさい。
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by mayukoism | 2009-08-06 03:22 | 生活

Ne Chi Ga e Ru

目覚めたら洋服のままうつぶせになっていて、ああまたやってしまったと起きあがり、
ふと左の首すじがいたむ。顔を左にまわすことができない。
もう一度ただしい姿勢で眠ればなおるかしらと、淡い期待をいだいてあおむけになってみたが、
ふたたび目覚めてもいたみはとれない。
寝ちがえだね、寝ちがえだよ、と心の小人がささやきあう。ばかだな、と思う。

寝ちがえたのが月曜で、水曜の朝に目覚めたら首が石膏のようになっていて、動かない。
ほんとばかだな、と思う。
おとなしくしていればいいのに歩きまわったりするから。
パソコンを借りて、近所の整形外科をしらべる。たしかあのあたりにあったような。
初診受付は早いんじゃないの、と知人が言う。
それはそうかもしれないけど、けがは午前中にしとけなんてきまりないじゃん、と
いたみのあまり、いそぎんちゃくのようにきゅっ、とすぼまってしまった心で答える。
ふたつの病院に電話をかける。あとにかけたほうが、受付できますよ、と言ってくれた。

整形外科、というと昨年の秋のことをおもいだす。
ある日したたかに尾てい骨(正確には仙骨)をうちつけた知人が、青暗い救急病棟で、
おなじくらいの透きとおるような青い顔色をしていたことをおもいだす。
他人の「大丈夫」が、あのときほどあてにならない、と思ったことはなかった。
あれから、どこに行っても整形外科を見つけると、なんとなく記憶しておこうとする変なくせがついた。

名前を呼ばれて診察室に入る。
さまぁ~ずの大竹を全体にこじんまりとしたような先生だ。
体の向きをかえて、何枚かレントゲンを撮る。まぶしいけどがまんしてね、と言われると、
そのまぶしさにたたかいを挑みたくなり、必要以上に凝視してしまう。
しばらく光の残像が虫のようにのこって、くらくらと後悔する。

ふたたび名前を呼ばれて診察室に入る。
プリントされた骨の写真を、かしゃんかしゃんと光の板の上にはさんで、自分の骨のかたちを見る。
わかるわけもないのに、なにか不穏な影のようなものがないかさがしてしまう。
おいくつでしたっけ、と小大竹先生が言う。
34です、と答える。答えながら、おお、34かあ、と思う。

見てください、ここ、と先生が白いペンのようなもので指した、その先を見る。

頚椎というのはこう、
(と、先生は手を、ずいずいずっころばしのようににぎって、かさねる)
このように四角い骨がつながっているわけですが、34年もつかっているとですね、
頭というのは重いんです、ぴよっとこのへんが、
(と、先生はにぎった手の小指だけ伸ばす)
出てきてしまうんですよ、ほらこのへん。
(と、先生はふたたび写真をペン先で指す)

たしかに首の骨の写真の、何番目かの骨の接ぎの部分が、少しだけ出っぱっている。
これはかるーい頚椎ヘルニアですね、と先生はちょっとほほえんで言った。

あら。
あらら、名前がついた、と思った。
このいたみの感覚に名前がついてしまった。

34年も使っていると、と先生は言った。
もっと使えば、この首の骨はもっともっとすりへっていくのだ。
年をとるって、体を少しずつ少しずつへらして、ぽんこつにしていくことなのだなあ、としみじみ思った。
はじめて牽引(気持ちよかった)というものをしてもらい、湿布といたみどめをもらって帰り道、
自転車で近くまで来てくれた知人に、34年も使っているとぴよってこうやって骨が、という
ぴよっ、のところを見せたくて何度もやってしまった。
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by mayukoism | 2009-07-31 03:39 | 生活

拝啓、神保町から

7月の終わりの日曜の直情的な日差しは、この世のものをふたつにわける。
体温のあるものと、ないもの。
コミガレに流れるダブと、真昼間のビール瓶。

ドトールの窓際の席から、コンサイスの看板を見上げる。
ふと目の前を横ぎる影があったので追うと、大きな綿毛が風にあおられてのぼっていった。
コンサイスにかさなるあたりまで上昇して、空を背景にしたとき、それは小さな雲のようになった。

遅番の日は少しはやめに家を出て、田村書店をのぞいてから出勤する。
まるくなり、かさなりあう背中の間を見つけて、さっと手をのばす。
店先で小銭を出すと、よくお会計をしてくれるひとが、この本おもしろいです、と言った。

明大へとつづく並木の根が、舗装された石畳をゆるやかに押し上げている。
この、目に見える起伏に至るまでの、しずかな途方もない時間を、たぶんヒトは知覚できないのだろう。
木の気分になって、ざまあみろ、ざまあみろ、と頭の中でうたう。

ドトールの窓際の席で、『林芙美子随筆集』(岩波文庫/武藤康史編)を読む。
ピーナツバターを塗ってトマトをはさんだパン、というのはほんとうにおいしいのかしら、と読みながら、
さいきん新しくなった「スパイシードッグ」を食べていたらぼろぼろと辛いトマトが制服に落ちた。

お店でお見かけしました、というメールをなつかしいひとからいただく。
いそがしそうだったので、声はかけなかったけど。
いつか会いましょう、と親指で押しながら、これは果たされないでする約束だとわかっている。

いつのまにか、いろんなことが少しずつずれていて、そういうときほど仕事ははかどる。
朝礼で、声をふるわせて、混雑するでしょうが気持ちのいい接客を、などと言いながら、
炎天下になるだろう「みちくさ市」のイメージがすっと頭をよぎって、遠ざかりながら目をとじた。
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by mayukoism | 2009-07-27 10:11 | 生活

夏には夏のつま先

暑い季節になると、余計なものを脱いで、かろやかになりたいと思う。

他人とくらべたがるものさしだとか、やや大げさに脚色した出来事だとか、
言葉にしてしまったほんとうの欲望やなんかを、すべて高みへと放りあげて、
放りあげようとして、いつのまにかまた、余計なものをぶらさげていたりする。

「西瓜色のマニキュア」が出てくる向田邦子の作品があって、そのいきいきとした赤さを
想像の野原で思いこがれるうち、近い色のものを見つけて、思わず買ってしまった。
左足の親指にひとぬりすると、西瓜というよりも赤いほっぺの津軽りんごのようであったが、
ずんぐりとした指が、紅のそこだけ女の人になったようで、なんとなくのびをするように
ふんふんと深夜にひとり、足をのばしてみたりしている。

めずらしくきれいに塗れたのだから、やはり足の指の見えるサンダルが欲しいなあと思い、
セールにわきたつ百貨店へまぎれこむ。
靴はきちんとした上等なものを手に入れるべきだと、わかってはいるのだけれど、
ついお財布と相談して、ひと夏のことであれば、とそ知らぬ顔で値札をめくっていく。

ここさいきんの買物は、安価なものをいかによいものに見せるかというのが主題で、
同じ値段でも少しデザインのかわったものや、色づかいのきれいなもの、
なにより嵐の中をじゃぶじゃぶとしても、風合いのかわらない、タフな素材のものを
選ぶようにしている。折り合いのとれたサンダルを一足、購入した。
つまさきのところで合皮が交差した、赤い指のむきだしになりすぎないサンダルを選んだ。

そのサンダルをはいて、世田谷文学館まで自転車を走らせた。
日差しが肌に鋭角にささるのが、夏のようで、夏なので、わくわくした。

自転車は、区が貸し出しているもので、おそろしくかっこよく(紫色、かごの上に謎の
小さな車輪がついている)、おそろしくのりやすく(ハンドルがなぜか内向きにまがっている、
サドルのクッションがきいていない、もちろんギアなし)、長距離にはやや(思いきり)不向きの
「THEママチャリ」だったのだが、走っている間は、自転車の速度が気持ちよくて、
どこまでもこいでゆけそうな気がした。

前を走る知人がときどきふりむいてなにか言うのだけれど、ほとんど聞きとれない。
変な選挙のポスターを指さして笑ったりする。

世田谷文学館は「堀内誠一 旅と絵本とデザインと」展を開催しており、残念ながら
うわさの『堀内さん』は完売していたが、じゅうぶんに楽しめる展示だった。
トレーシングペーパーを、細いペン先の小さな字と小さな絵がちょこまかとうめてゆき、
線で描かれた地図にかさねれば、目の前に「堀内誠一のパリ」があらわれる。
「24時間営業の古本屋」や「昼間から夜のお姫様が立っている」という街角を指先でたどる。

3周くらい「堀内さん」を堪能し、ふたたび自転車を走らせる。
ボトルの「スーパードライ」を交差点で飲み干す。Tシャツが帆のようにひるがえる。

夕方の日差しはまるく肌をつつんで、ぼんやりくたびれた身体をますます火照らせる。
高円寺の「古楽房」に立ち寄ったら、王子が「焼けてる」と笑った。
そんなに焼けてるかしらんと、蛍光灯のあかりの下で自分の腕を見てすこしぎょっとなる。
赤と白の境界がきれいにできている。知人はもっと、砂浜と海くらい焼けている。

帰ってきて、きつくなったサンダルを脱ぐと、つま先もサンダルのかたちに焼けて、
なんだかゆでたハムのような色になっていた。
赤い爪は朝より少しちぢんだ。
知人が、今日観なくてはいけないと言う『ローマの休日』を鑑賞し(前に観たときよりずっとよかった)、
ボイルドハムを横目にしながら、ドレスにつつまれた華奢なつま先を、夢のような気持ちで見た。

夏なら夏の日差しをあびて、冬には冬の日差しをあびて、ぶさいくになるならしかたないか、と
つま先は思った。
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by mayukoism | 2009-07-17 02:33 | 生活

世界の果ての洗濯機

海鳴りをきいたことがない。
きいたら、あれが海鳴りだと、わかるのだろうか。
隣室でまわしている洗濯機は、きいたことのない海鳴りのようだ。
こちらも、洗濯機をまわす。

あらゆる家事のなかで洗濯がいちばんにがてだ。

黒いくつした、無印のバスタオル、紺の下着、制服の黄色いブラウス、
抵抗してもむだだ、と言わんばかりにいっしょくたにほうりこむのはきらいでないのだが、
ぴーぴーと鳴いた洗濯機から、こんがらがった布地の群れをひとつひとつはがし、
ぱんぱんとしながらハンガーをとおし、というその過程の多さに、気がおもくなる。
すぐに着られるわけもなく、どこへもたどりつかない、感も少しある。
乾いたとおもったら、なんとまだ、たたんで仕舞う、という作業がその先に待っており、
みちのりは長い。

じつはいまもまだ、干している。

洗濯は4時間ほど前に終わった。
終わってからなぜかかくんと眠ってしまい、はっと目覚めて「すすぎ」だけもういちどした。
それからも2枚干してはふー、とレモンティーを飲み、くつしたをつまんではネットをし、
と逃避しながら干しているうちに、こんな時間になってしまった。

いつか死ぬ、ということを、なぜだかこどものころから毎日わすれられない。

洗濯というプロセスを、ゆっくりいやいやとこなしているとき、いつもつよく死をかんがえる。
人間は洗濯をくりかえし、くりかえしして、くりかえしのうちに死ぬんだなあ、とおもう。
洗濯のさきに食事があり、労働があり、たのしみがあり、かなしみがある。
遅刻を注意されたあのひとも、無理難題をおしつけてきたあのひとも、
はっはと笑って焼酎ソーダ割りをかきまわしていたあのひとも、洗濯からのがれられない。
世界に背を向けて、小さな渦の中にあらわれては消えるこっけいな物語を、
いつかひそかにながめる。

まだ、干し終わらない。

ラジオ深夜便のこの時間の選曲はまったくすばらしく、
ロス・インディオス&シルヴィア『別れても好きな人』→村木賢吉『おやじの海』
→ジューシィ・フルーツ『彼女はゴキゲンななめ』→ばんばひろふみ『SACHIKO』とつづく、
このとりとめのなさこそがもう愛だとおもう。

電話口で、知人が読む菅原克己の初期の詩を聞いた。
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by mayukoism | 2009-07-12 03:37 | 生活
仙台で、なにがあったというわけでもないのだ。

今回は自分の箱を出していたので、観光のことはまったく考えていなくて、
自由時間をいただいて、こまったくらいのものだ。

そんな感じだから、こころゆくまで愉しんだかと言われると、そうでもないような気もするし、
残念ながら両日とも天候にめぐまれなかったので、右の靴ばかりがつねに湿っていたし、
だれがなにを求めているかを先に量ってしまう傾向があるので、大勢の人のなかで、
自分がどのようにふるまいたいのかが、どうにもよくわからなくなったりだとか、
帰京して、休んだ間の仕事の滞り具合にうんざりして、Tシャツをぬぐみたいに、
自分のまわりの景色をそっくりうらがえしてやりたい、とこころの底から願ったりだとか、

こうしてふりかえってみると、仙台の2日間は断片的で、ふいにきらめいたと思ったら
次の瞬間にはうつむいて考えこんでしまうような、じつはどうにも表現しがたい記憶ばかりなのだ。

からだはとっくに日常に慣れている。
それなのにまだ、息つぎをするように仙台の2日間を思いこがれてしまうのは、
ある特定の出来事や景色のことではなく、2日間の総体、あのときだれがどのように動いて、
どのように発言をして、どのように自分がそこにかかわったか、そういった動きの総体に、
自分の、理想的な労働の一面をかいま見てしまったからだ。

それは総体であって、じゃあ何がしたいのか、とか、これからどうしたいのか、とかいう
具体的な目標みたいなものはまったくなく、ただ、この自分のやっていることが
確実にだれかに届く感じ、しいていえばそういう目には見えない、つながり(単なるつながり、
そこにセンチメンタリズムはない)、みたいなもののこと。

かたちにはのこらないかもしれない、でも絶対的に信じられる、そういうやりとりがしたい、
ただそれだけなのだけど、それを芸術ではなく、労働につねにもとめることはできないものだろうか?
それとも、それはやっぱり、ある程度の規模の組織の中にいてはできないような、

そういうものなのかなあ。
そういうことなのかなあ。
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by mayukoism | 2009-07-01 23:34 | 生活
あじさいは好きですか?という質問に対する返信。


あじさいは好きです。

あじさいほどくもり空の似合う青を、ほかに知りません。

あじさいの色のちがいは、その土の質によるのだと聞いたことがあります。

土が酸性ならえんじの、アルカリなら青のグラデーションになる。

つまり、あじさいはリトマス試験紙のようなものだと。

しかし最近になってどうも、それは嘘であるような気がしてきました。

嘘でも、嘘でなくても、どちらにしても根拠はありません。

調べてみればすぐにわかるのでしょうが、ただ、わたしはその

「あじさい=リトマス試験紙説」が好きなので、

なんとなく信じてみることにしています。

ではまた。


週末のわめぞ仙台行きに向けて、出品する本をダンボールにつめていると、
なつかしい人からメールが届いた。
彼女を紹介してくれた人と疎遠になってしまったので、もう連絡をとりあうこともないと
勝手に思っていたのだが、なにかのきっかけで思い出してくれたようだ。
メールというのは、ときに便利すぎるほど便利なのだ、と思う。
通信は、時空をためらいもなくひょいとこえていく。
伝えられる近況をかんたんにメールしてから、往来座に本を届けるため、部屋を出る。
往来座に行くまでに4ヶ所、あじさいが咲いていた。
はじめのあじさいは青、次は赤っぽい紫、次は青、次は白。
白?
不安定な台車をごろごろところがしながら、酸性でもアルカリ性でもない、
未知の惑星の土壌について考える。


yah、こちら地球雑司が谷、応答せよ。

あなたの星に咲くあじさいは何色ですか。

yah、応答せよ。

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by mayukoism | 2009-06-17 18:40 | 生活

他人の部屋

長い文章を読むのに読点が必要であるように、生活にも読点、のようなものが必要なときがある。
目覚めたときの身体の、あまりの重さをもてあまして、何年かぶりに仕事を休む。

休んだ日の部屋は、潔癖なまでに白い。
休んでしまっていいの、ほんとうは行けたのではないの、という正しい心の声を映しているみたいに、白い。
そしてカーテンのむこうにひろがる曇天は、部屋のつづきのように明るい。

出かけてゆく人を見送る。
前の晩から具合がわるくなり、そのまま他人の部屋で休むことになってしまった。
ゼリーなら食べられる、と言ったばかりに、何種類ものゼリーが冷蔵庫の中にある。
ぶどうのゼリーを、とりだして食べる。
スプーンをさしこんだときに、銀色を透かしたゼラチンが暗くひかるのを、はじめに見るのが好きだ。

他人の部屋は、にぎやかだ。
テレビも、さっきまでつけていたラジオも消した。
もうすこししたら音楽をかけようかと思うけれど、今はかけていない。
二重ガラスごしに、環七を走るトラックの音がぼんやり聞こえる。
でもにぎやかなのは環七のせいじゃない。
自分ではない人の部屋には、自分ではない人の生活が、当たり前だけれどあふれている。
生活が、目に見えない音になって、空気中にたえずひびいている。

学生のころ、2年近く、他人と生活したことがある。
線路沿いのアパートで、深夜でも早朝でも、列車が通過するたび揺れた。
そのとき他人と暮らすことに、外的な必然性ははっきり言ってなかった。
早朝のコンビニで、夏休みの保養所で、国語を教えるため知り合いの家で、そののち社員になり
倒産することになる書店でアルバイトをかさねて、食事をつくって洗濯をして、長めの小説をふたつ書いた。
そうやって「生活ができる」ことを、生活の理由にした。
意味はあとからつけくわえた。つけくわえた意味は、自分のなかでなんとなくまだ息をしている。

他人の部屋でその景色のとおさのことを思って、読みかけの本をひらいた。
体勢をかえながらずっと本を読んで、途中で歌詞のない音楽を聴きたいと思って、他人の本棚から
Duke Ellington『Money Jungle』をひっぱりだして、かけた。
「Very Special」の、イントロの行ったり来たりする感じがおもしろかった。
そのうち、読んでいる本に「デューク・エリントン」が登場してびっくりしたけれど、
このアルバムとは別のアルバムのようだった。
『Money Jungle』をくりかえしかけているうちに、昼間出かけていった人が帰ってきた。

夕ぐれどき、ベランダにあるエアコンの室外機の上に、ばさばさとつばさをゆらして鳩がとまった。
ときどきカーテンを開けて鳩を見た。シルエットの鳩は首を羽根の中にうずめてじっと動かなかった。
いつまでも動かなくて、知人が帰ってきてからも動かずそこにいた。
鳩がいるよ、と言うと、だからエアコンはつけないようにしてる、と言ったけど、ほんとかうそか、
よくわからない。寝る前にもまだいた。

翌朝、昨夜とかわらず胃はむかむかとしたけれどあまり考えないようにして、まだ眠っている知人に
お礼を言って部屋を出た。
エレベーターで降りながら、あ、鳩を見てこなかったな、と思ったけれど、降りだしそうな空を見て
そのまま忘れてしまった。

線路沿いのアパートは卒業してすぐに壊されて、そのあとにはきれいな公共住宅が建ったけれど、
あそこも間違いなく揺れるだろうと、電車で通過するたび思った。いまはもうめったに通らない。
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by mayukoism | 2009-06-06 01:37 | 生活