乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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カテゴリ:生活( 88 )

青と桃

3つ違いの妹とおそろいの服を着せられた記憶がない。

幼い自分に母は「ふたりのコセイをソンチョウして」というようなことを言ったが、
そのときは意味がわからなかった。
わからないながらに覚えているのは、なんとなく重要なことを言われた気がしたからだ。

毛布やタオルなどの生活必需品は、いくつかおそろいがあった。
たいてい色違いで、わたしが青か緑、妹がピンクか赤だった。
選択権はなく、とくに問題もなかった。
ただ、わたしは与えられた青い毛布をかぶりながら、
青色がピンクよりもすぐれている理由を頭のどこかで考えていた。
すぐれている理由が見つからなかったので、わたしは青色が好き、と思うことにした。

・・・かどうかはさだかではないけれど、色を選ぶときにはいまでも青や黒など、
地味な色をえらぶ。
いまならその色が好きだと言えるし、それなりに自分に合う色だともおもう。

先日、2年前に亡くなったKくんの3回忌法要がいとなまれ、お斎に出席した。
(※Kくんについてはこちらこちらに書きました。)
親戚付き合いがなく、ふたりきりになってしまったご両親から、何度もお礼を言われた。
Kくんの位牌を真ん中にして集合写真を撮った。
一周忌のときに撮影した集合写真は仏壇の前に飾っているので毎日見ている、とお母さんは言った。

最近になって写真は、写真にかぎらず残すことは、大事だとおもうようになった。
いままでは記憶が大事だった。
その場に「いる」ことをなによりも大切にしたかった。
けれども記憶は、わたしがいなくなったら消えてしまう。
そしてわたしの記憶装置はそれほどかしこくないことに、気づいてしまった。

お斎が終わり、お母さんが女の子はこっち、男の子はこっち、とお返しを持たせてくださった。
その後の気楽な飲み会でお返しを開けてみた。革のパスケースだった。
革は黒で、縫い目と裏地が女性がピンク、男性は青だった。
パスケースに定期をはさむと、「PASMO」のピンクのロゴと糸の色が合ってかわいいな、とおもった。
つぎは7回忌だけど、一年に一回くらいこの時期に会うことにしようか、とだれかが言って、
みな、すこし考えたあと、ばらばらにうなずいた。
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by mayukoism | 2012-01-13 02:47 | 生活

デパート随想

ひとの買い物につきあうため、ひさかたぶりに新宿伊勢丹にはいると、
しぜんと背筋がのびるような感覚があって、自分にとってデパートとは
やはり「おでかけ」であり、「よそゆき」であるのだ、と思う。

目白、雑司が谷に暮らしはじめて3年が経ち、池袋までは歩いていける距離なので、
セーブやらトーブやらにふらりと寄るのにも、もはや違和感はないのだけれど、
「きょうはイセタン」と言われて、ああ大人につきあうのめんどうだなあ、と思いながら
ふだんは着ないツーピースなどに袖をとおす子どものころの、あの複雑な高揚感を
伊勢丹に来るとありあり思いだす。

いらっしゃいませ、とまぶたに色を塗った、脚の長いおねえさんたちは笑うけれど、
そこには見えない壁があり、いまの自分は大人といっしょでないとあそこに入れない、
おねえさんたちはわたしに笑ってはいない、ということを、
だれに教わらずとも肌で感じた、デパートと自分の「遠さ」が身体に戻ってくる。

しかし、セール中のコム・デ・ギャルソンで、抽象画のように乱れたガラスケースをながめながら、
いったいここに届くことばというのはあるのだろうか、とふと考えてしまう。
5万円のキュプラのジャケットを買おうかどうしようか、目の前で悩んでいる人にむかって、

葬列、白いのは犬


という金子兜太の句が、今朝、ホームで電車を待つとなりの人の文庫本の中に見えて、
頭のなかに閃光がはしったかと思った、というようなことをいったいどれだけ伝えられるだろう。
あるいは、twitterをひらいたら、タイムラインに表示された「大島弓子bot」が、

文明人は電気がきれたら食うか寝るかしかできねだよ 
おらとなりの衆よんでくる 
酒もりすべ
(『サマタイム』)


とつぶやいていて、もう家に帰りたくなってきました、というような話をしたとして、
どれだけの人が耳をかたむけてくれるだろう。

高いものは良いものだ、という感覚は厳然とあって、わたしもそのように教わった。
デパートにいると、その現実があまりにもわかりやすく、明らかに見えるので、
じゃあことばをいまここにならべてみたら、それは「高いもの」と判断されるだろうか、
だれかが手にとって、持ちかえってくれるだろうか、と思わず不毛なことを考えてしまう。

そもそも「ことば」には値段をつけられるのだろうか?
では書籍に値段がついているのはなんなのか?
紙、印刷、製本、装丁、時間、労力。
詩集は高額。週刊誌は安価。
とつぜんそんなことが不思議に思えてくる。

そんなふうにしてようやくひとりになったら、どっと疲れてしまった。
買い物は好きだけど、ひとの買い物につきあうのには骨がおれる。
わたしと「イセタン」との間にはいまでも見えない壁があった。
見えない壁は、あったままでもいいのだった。わたしにとっては。
さあ、セーブやトーブのある池袋に帰って酒もりすべ、と
文明人は、文明人でひしめきあう夕暮れどきの山手線に乗った。

まーるい緑の山手線は汗の匂いがした。
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by mayukoism | 2011-07-07 06:03 | 生活

ムトーさんのアトリエ

人が料理をする背中を眺めることができる。
あ、これはワンルームにおけるぜいたく、と思いながらムトーさんの背中を見ていた。

ムトーさんの細くながい脚の、右に左に重心がかかる。
んんーとか、あー?とか言いながら、ムトーさんはコピーしたレシピを幾度もながめる。
板張りのムトーさんのアトリエには、低い台所がついている。
背の高いムトーさんはすこし前かがみになりながら、ざくざくと長葱を切る。
一口コンロに、擦ったマッチで火を点ける。
外市などでいつか販売していた、ムトーさん作のマッチ箱だ。

大さじ1、とつぶやきながらムトーさんは甜麺醤の瓶に指をつっこむ。
豆板醤、豆チ醤も同じように指でべろりっとすくう。
パックのひき肉をざっくり半分、木べらで中華鍋に投入した。
手つきがおおざっぱなわりにはレシピどおりで、あらかじめ湯どおしした豆腐をくわえ、
ムトーさんはあちい、と言って中華鍋の手にぬれた布巾を巻いた。
中華鍋って噴火口のようだ、と思った。

部屋の一角は青いビニールシートでおおわれていた。
そのシートの下に、ムトーさんの仕事道具や描きかけの作品などがあるのかもしれなかった。
低い台所に、背を向けて描くのだろうか。
それとも台所に向かって描くのだろうか。
いや、台所に向かっては気が散りそうだから、横目に描くのかもしれない。
などと、どうでもいいことを想像した。

陳建一はえらいなー、と言いながらムトーさんお手製の麻婆豆腐をいただいた。
麻婆の素で作るのが麻婆豆腐だと思ってたら、陳建一のレシピがあって、
最初から作ってみたらすげーうまかったんだ、とムトーさんが言う。

でも、初めに作ったやつのほうがうまかった、と古書現世の向井さんが言う。
陳建一の店っていまもどっかにあるの?と古書信天翁のカンバラさんが言う。
もっと早く起きていればねえ、と古書信天翁のヤマザキ先輩が言う。
(ヤマザキ先輩はいちばん最後にアトリエに着いた)
わたしは同居人の隣にすわり、さくらんぼの茎を口のなかで結ぼうとしていた。
さくらんぼの茎はまずい。だれも結べなかった。

部屋のすぐそばで猫が喧嘩をはじめたので、ムトーさんは台所の窓を開けてにゃー、と言った。
窓際に並んでいた塩の容器が、シンクにぽちゃんと落ちた。

部屋の窓にはなぜかななめに吊られた電飾が、異なる色で順番に光っていた。
ときどき光が点滅するのを見ていた。
なぜ今日、この人たちがムトーさんのアトリエに集まったのか、よくわからなかった。
ただ、いまはこうして人に会っていたほうがたのしいんだな、と感じた。
想像よりも、現実の麻婆豆腐のほうがおいしいのは当たりまえのことだ。
ふむ、ふむ、と小さな台所を行ったり来たりするムトーさんの背中を見ながら、
たぶんなんかいつもより緊張してるんだよ、と向井さんが笑っていた。
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by mayukoism | 2011-06-16 04:01 | 生活
雨の予報を耳にすると、つい雨を待ってしまう。
雨が降る前にうごきだせばいいのに、雨が降りだしたのを見て
雨だ、雨だね、とちいさなだれかに話しかけたい。
本日の雑司が谷はまとまった雨が降りだすことはなく、
ひらいたまま頭にはいってこない本の言葉のように、
ときおりぽつぽつと粒を感じるていどだった。

雨の意味が、3月11日から変わってしまった。
わたしは雨の日が好きなので、なぜならそれはどこにいても
雨にかこまれて自分の部屋ができるから、
傘ひとつぶんの空間にかくれて、空想を咎められない気がするから、
だから雨が好きだ。
雨のにおいや土のにおいを肺の細胞の襞まで、吸いたい。
そこにほのかな不安があることにとまどう。

こないだレジに入っていて、いらっしゃいませ、と本を受けとったときに、
ふとなにか、理解のかたちのようなものが自分のなかにおりてきた。
ふだん新刊書店ではたらいていて、レジに入ることもそれなりにあるのだけど、
抜き手をきって泳ぐように、つぎからつぎへと本を受けわたししながら、
ときどき目の前の出来事とはまったく関係なく、なにかがふと
おりてくるような気持ちになることはよくある。

いま、というのはまだ書かれていない本のことなのだ。

そのときふってきたのはそれだった。
手わたされた本にカバーをかけながら、
書かれた本のことばかりを、描かれてしまった色のことばかりを、
自分は考えていたのではないか?とふいに思った。
書かれた本は目に見えるし手をのばせばとどくから、
つい、すでに形になっているものばかりが鮮やかに自分のなかへきざまれてしまう。

大事なのは、本はまだ書かれていないということだ。
いま、というのはつねにまだ書かれていない一行のことだ。

現在という時間は書かれた本、描かれた色、奏でられた音にあふれていて、
漠然となにかをしたい、ような気がする、そんな気持ちをおしながす。
いま目の前にあるすばらしい本や絵にくらべ、ぼんやりとした夜の個人的な焦燥なんて
なんて無意味、と自分で自分をあきらめてしまう。
ただ、焦燥の記憶だけが、身体に澱のように積もっていく。

本はまだ書かれていない、という意味で、「いま」という時間はだれの前にも
同じように存在する。

これはいまの自分にとって、とても重要な理解だったのだ。
意味がわからない、という方がいたら、これがわたしの説明する能力の限界。ごめんなさい。
そう、これはとても個人的な備忘録で、こうしてあのときの理解の感覚を
言葉でときほぐしながら、編みなおしながら、いまにも見失ってしまいそうなほど
あやういものだとわかったから、ここに記しておこうと思った。
本はまだ書かれていない。
これから「それ」が書かれるのか、書かれないのかはだれにもわからないし、他人には決められない。
そのことに、もうまどわされないでいたい。

レジに入りながらどこまでも思索をひろげる、不真面目な書店員だぞわたしは。
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by mayukoism | 2011-06-02 05:11 | 生活

夜と胃薬

身体のどこかがいたむ。

いたんだ場所をさぐるのに、自分の内側に目をむける。
すると、身体の内側から夜になる。
あおい暗闇をさぐりながら、今日の自分をたぐっていくと、
ああ、缶のワインはめずらしいと思って、歩きながら飲んだな、とか、
レモンのグミをつまんでいたら袋が空になっていたな、とか、
いたみの原因は、いくらでもおもいうかぶ。

食べるものがわからなくなって、空腹感をのこしたまま夜の大通りを歩けば、
からっぽの胃袋が、夜に親和する。
胃袋のほころんだ部分から、夜がしのびこんでくる。
このにぶいいたみのありかがこの場所にあるな、とわかる。
夜は、胃のいたみをやわらげない。むしろ、いたみをはっきりかたちづくる。
そのいたみをマゾヒスティックに身体中で感受するのが、夜だ。

胃がいたむ夜ほど、ひとりを感じることはない。
過ぎるまでにいたみの質や、リズムがどんどん変化する。
とりあえず身体をまるめて、このいたみのながい一小節がとぎれるまで、じっと待つ。
いたーい、とさわいでみても治らないので、ただじっとしている。
同行者がいるときは、申し訳ないなと思う。
思うまもなく何度目かのいたみがくる。

こどものころから胃腸がよわかった。
母子手帳の記録に、カンチョーされたことがのこっているらしい。

いたみがひいて、明日のためにとりあえず薬を飲んでおこうと蛇口をひねるとき、
透明なグラスに、透明な水がそそぎこまれる。
夜の水は銀色のシンクの上で、しずかに光りつづける。
この水に。
放射能がはいっているかもしれない。
しれなかった。
と、この春は水を汲むたびに思う。思いながら飲む。
夜の水は、夜の発するかすかな光をあつめて、そこだけあかるくてきれいだ。

夜、会社を退館するとき、警備室に鍵を返しにいく。
今日、警備室の窓を開けると警備員は不在で、机の上にオレンジの
「エビオス錠」が置かれていた。
こどものころ、一回の錠数が多い薬を手のひらに出すとき、錠剤の配置でいっとき、
星座をつくろうとした。
おちゃわん座、とか、もみじの葉座、とか存在しない星が手のひらにできる。
他人の胃のことを思うときも、わたしの内側が夜になる。
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by mayukoism | 2011-04-17 03:41 | 生活

ありふれた日録

震災の日からはじめての休みがきた。
朝、仕事にでかける同居人に、9時半に目ざましを、ともぞもぞ言うと笑われた。
そんな時間に起きられるわけがない、という笑いだ。
休みの日は、自分でもおどろくほど起きない。
目ざましはどうやら言いつけをまもって、9時半にしっかり働いたようだが。
目が覚めたのは11時半だった。
ベランダを、大きな鴉の影が横ぎってとおりすぎた。

自転車を走らせ、図書館へむかう。
旅猫雑貨店の入口は開いている。
赤丸ベーカリーの入口には「営業中」の札が揺れている。
八百屋には長葱が行儀よく並び、
野菜を選んでいる眼鏡の女性の茶色い髪に太陽の光があたっている。
ゆるい坂道をのぼる。ギアを軽くする。
息切れしない。息切れしないで、どこまで行けるだろう。

図書館。文庫の「か行」の並びがばらばらになっている。
返却後の本が一時的に置かれるブックトラックには、「地震」の文字が並ぶ。
背広の男性が受付で身分証をさがしている。
レファレンスカウンターで初老の女性が、日本の苗字について尋ねている。
どの新聞も、一面の文字が大きい。
あの文字の大きさを、その文字が意味するなにものかよりも、大きさを何度もたしかめる。
毎日のようにたしかめてしまう。

夕飯はカレーにしよう。
カレーをていねいにつくろう。

そう思ってスーパーに行った。
ふつうの玉ねぎがなかった。さっきの八百屋をとおって帰ってくればよかったな、と思った。
ぜいたくに、新玉ねぎを2個買った。
じゃがいもと、4分の1キャベツと、豚肉、がほしかったのだが、なんと豚肉がない。
特売の牛肉ロース薄切りを買った。
カレールーがない!といっとき思った。
よく見るといつもは同じ銘柄が複数陳列されている場所に、一列しか並んでいないのだった。

自宅にいちばん近い坂道は、急なのでひといきにあがれない。自転車を降りる。
部屋に着いたところで、同居人からの着信に気がついた。
旅猫雑貨店に、今日で雑司が谷を離れ、ふたりで暮らすu-senさんと豆さんがいると言う。
食材を冷蔵庫に入れて、向かった。
豆さんの顔を見て、わー、ぱちん、と手のひらをたたいた。
あの日、豆さんもわたしも本屋に勤務中だった。
思いの量が、言葉の容積から少しずつあふれてしまう。早口になっている。



あの地震の日、職場から歩いて帰ってきた。たいした距離ではない。
外堀通りから目白通りに入る。
目についたファミリーマートに入ったら「ファミチキ レッドホット味」があった。
レジの店員さんは、次のシフトの人が来ないから、帰れなくなりました、と笑った。
歩きながら食べた。あたたかな油がじゅわっと舌の上にひろがった。
板金所のシャッターに「ここは目白通りです」と手書きの紙が貼ってあった。
チェーンのステーキ屋の入口にある黒板には、「安心して食べてください」と書いてあった。

たくさんの知らない人たちを追いこし、すれちがい、ときには並んで歩いた。

音羽通りまで来たところで、あれ、と思った。
こないだ、アンチヘブリンガンで開催されたNEGIさんとナンダロウさんのトークのあと、
同じ方向に帰る人たちと歩いて帰ってきた。
あのときにのぼった坂道ではないだろうか、あれは、と思った。
いちかばちか、大通りをはずれてその坂道へはいった。
たしかこのあたりで、祖母がやっている本屋の話になったんじゃなかったかなあ。
記憶と景色をかさねて確かめながら、だれもいない住宅街を歩く。

やがて、「か行」のばらばらになった図書館への矢印が見えた。
知っている場所まで来た。
植え込みの沈丁花が、ふいにつよく香った。
こんなときなのになんていいにおいなんだろう。
路線バスが走っていた。それなりに混雑していた。深夜なのに夜が明るかった。
雑司が谷の、弦巻通りにはいった。
赤丸ベーカリーには奥に灯りがともって、生地をこねている白い帽子が見えた。
旅猫雑貨店は、帳場がほのかに明るかったが、店内はよく見えなかった。




あの夜、のぞいた旅猫雑貨店にいま、いる。
ほとんど崩れなかったというかねこさんの言葉にほっとする、と同時にさすがだ、と思う。
かねこさんからお米をいただいた。
お米をビニールにうつす、ざーっという音が店内にひびく。
そのあいだに、またね、気をつけてね、と言いあって豆さんはブリキの米びつをかかえ、
u-senさんと連れだっていった。
同居人から、池袋の「宮城ふるさとプラザ」で買ったという「牛タンジャーキー」をいただいた。

桜の箸置きをふたつ、購入した。
春の箸置きを旅猫で買おうと、前から同居人と言っていたのだった。
かねこさんにお礼を言って、よいしょよいしょと坂の上の部屋に帰った。
切ったばかりの新玉ねぎはとても甘くて、炒める前にいくつかつまんだ。
あとはなんということのないカレーだった。なんということのないカレーが食べたかった。
お腹がいっぱいになったら、そのまま眠ってしまった。
夜中に目覚めて、なんとなく眠れずに、何枚も重ね着をして、空が明るくなるまで待っていた。

白い富士山がきれいだった。

その日はカレーだったので、桜の箸置きは、まだ使っていない。
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by mayukoism | 2011-03-18 02:59 | 生活

わたしにはできないこと

年のあらたまるころになると、わたしは自分にできないふたつのことをよくかんがえる。

ひとつは「手帳をつけること」。
頭のなかでスケジュール管理ができるわけでもないのに、わたしは手帳を
つけることが苦手である。
手帳をつける自分を、もうひとりの自分が上から見おろして、
「もっとていねいに書け」
「一週間に一冊のペースじゃおそすぎる」
「ドトールばかり行くな」
などとうるさく言われているような、手帳に監視されているような気分になって、
だいたい桜がほころぶころになると、ひっそり机の奥にしまいこまれている。
今年も手帳売場を何度もうろうろしたのだけど、まだ買っていない。

もうひとつは「買い置きをすること」である。
年末年始で出入りもひんぱんになるだろうから、
軽くなってきた洗剤を買っておく、
お客様があったときのために歯ブラシも買っておく、
いつかなにかで入用になるだろうから水も一本買っておく、
というようなことがわたしはできない。
室外機から出る風の有効活用法、にぼんやり思いをはせる「現在」のわたしが、
はやくはやくこっちにおいで、と「ほんの少し未来」の自分に急かされているような気持ちになって、
なくなってから必要になってから、考えればいいよね、とふたたびぼんやりに戻っている。

同居人は、このふたつのどちらもできる。

手帳は毎年同じタイプのものを、書店に手帳がならびはじめるころにはもう買っている。
いちにちの終わりのふとした時間に手帳をとりだし、今日食べたものや読んだ本を、
かんたんに書きしるしている背中を見る。
生活用品をまとめておくことにした小さな天棚には、いつのまにか5個組ティッシュと
6個組トイレットペーパーがふたつ、ウェットティッシュの詰め替え用がひとつ、入っていた。
椅子の上にのらないと開けられない戸棚の前で、ひとときあっけにとられた。

だれかと暮らすと、自分にできないことや、自分に足りないことが
あぶりだしのようにうっすらゆっくり、見えてくる。



フライパンの炒めものを返すのが苦手。(同居人は得意)
帰ってきてすぐに着替えることができない。いったん休みたい。(同居人は休まない)
引き出しのなかの小物が、いつのまにかばらばらになっている。(同居人の引き出しはきれい)



ある日、仕事を終えて帰ったら、前髪に整髪料がぴかぴかくっついているように見えたので、
なにかついてるよ、と同居人に言うと、同居人は顔の半分で笑い、もう半分をくもらせて、
じつはこれにはとてもかなしい物語が、とすこし前にあったことを話しはじめた。

あさりの味噌汁を作ろうと思った。(すばらしい)
あさりの砂抜きをしようと蛇口をひねったら、あろうことかお湯が出ていた。
(われわれの部屋はバランス釜方式なので台所の蛇口はひとつです)
砂抜き初体験の同居人は、どちらかというと塩分濃度に気をとられ、
しばらくお湯が出たことに気がつかなかった。
あわてて水に入れかえて、息をのんで待っていた。
が、貝はだまったままいっさい口をひらかなかった。

わあどうしよう、とあわてた同居人はなぜだかそこであまりに気が動転したためか、
無口なあさりを鍋に投入し、お正月にいただいた日本酒を入れ、
「酒蒸し的なもの」に切りかえようとした。
が、「酒蒸し的なもの」初体験でもある同居人は、ぐつぐつとはげしく沸騰する日本酒を見て
またもや動転し、ああっと鍋のふたをひらいたところ、目の前にばうっと火柱が立った。
貝はそのまま永遠のねむりについた。
焦げた前髪と、焦げた髪特有の匂いだけが部屋に残った。

ばか、とわたしは言った。

前髪を焦がしたり、引っ越し早々車にぶつかったり、仙骨にヒビをいれたり、
そういう「わたしにはできないこと」も同居人はよくやる。
そういうことはお願いだからもうやらないでほしいと思う。

焦げた前髪は毛先が金髪のように光り、チリチリになっていた。
ヘアカットの経験はないけど、緊急事態なのでわたしが切った。
まっすぐな黒髪の合間のチリチリは案外と目だった。

同居人の名誉のためにつけくわえると、「あさりの悲劇」の日にはじつはもうひとつ
食卓にならんだおかずがあって、
それは「えびチリ」だったのである。
ちゃんと皮をむいて背ワタをとったのだ、とそのときだけは誇らしげに言った。
わたしは「えびチリ」を、実は作ったことがない。
たまにそういう手のかかるものをつくってくれる同居人を、なんだかおもしろい生き物に
会ってしまったよなあ、と飽きずにながめることにしている。

翌日、同居人は床屋で髪を切っていた。
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by mayukoism | 2011-01-10 03:49 | 生活

黄色い日々

近くのお屋敷の軒先に、見あげるほどの椿が白い花を咲かせている。
黄色い花心をふかふかとさせて、あれは椿だと思うのだけど、あんまり立派なので
もしかしたらちがう花木なのかもしれない。
そういうことを、しらべなくてもわかるような大人になりたかったが、たぶんもう遅い。

黄色いふかふか、と言えば昨日、旅猫雑貨店のカネコさんにさつまいもをいただいた。
さつまいもを料理したことがないという同居人の言葉に、はて、と記憶をさらってみたが、
ふかす、煮る、くらいしか覚えがない。牛乳で煮るさつまいもはおいしい。
帳場のカネコさんが向田邦子のレシピ、とおっしゃったので、レモン煮、と答えてしまった。

というわけで、さつまいものレモン煮である。
『向田邦子の手料理』(講談社)によれば、栗の甘露煮もともに煮るようだけど用意がないので省略。
皮をむいたさつまいもは冬のかたくなな肌のようなのに、火をとおすとやわらかな黄にそまる。
黄に見とれてゆですぎた。輪ぎりレモンをうかべた段階で、いくつかはほろほろとくずれた。

レシピというのは言葉のかたちでのこり、手先にのこり、そのあと味覚につたわり、滋養となる。
料理には、何段階にもわたってていねいな伝達がある。
くずれたさつまいもを味見と称してつまむ。酸味と苦みがおなじはやさでひろがる。
すこし冷えたレモン煮の小鉢が、お通しとしてテーブルに置かれたら、時間はゆっくり流れるのだろう。
こんどレモン煮をつくるときは、下ゆでは軽めにしよう。

朝、嵐のぬけた雑司が谷霊園は落ちたイチョウの葉で、いつもより明るく見えた。
どうしようとわたしの勝手、と言わんばかりに墓石の、いろんな向きで、いろんな位置に、
黄色い葉がぺたぺたと、無邪気な手のひらのようにくっついていた。
やがて、師走というのに夏のおわりのような正午がきた。
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by mayukoism | 2010-12-04 02:34 | 生活

雑踏で

雑踏でぐっ、と腕をおされた。

相手は左から、こちらはまっすぐ歩いていて、一歩を踏みだすタイミングが同じだった。
ぶつかるような格好になったので、とっさにそのまま前に歩いた。
歩いたところ、相手も同じように前のめりにせまってきて、ぐっ、と相手の体重が腕にのったのがわかった。
うごけなくなった。

見ず知らずのひとの悪意、もしくはそれに近いものをふと受けとってしまうとき、マッチの摩擦のように、
自分のなかの攻撃性がはっとめざめる。
そしてその火のような本能を、どうおもてに出してよいのかわからないまま、あいまいに雑踏へ
身体ごとまぎれていく。

相手とはそのまますれちがった。罵倒されることも、つかみあいになることもなかった。
左の二の腕に、他人の体温がのこった。
わすれたいようなたしかめたいような、相反する感情をもてあましながら地下鉄にのった。
地下鉄には外国人の集団がいて、なぜか中づり広告の福山雅治を熱心にカメラにおさめていた。

傷ついたような気持ちになんて、毎日、かんたんになれる。
けれど、「傷ついたような気持ち」には他者がいなくてひらかれることがないから、この気持ちは
つぶやきにも歌にもならず、ただ汁椀の底の貝殻のように折りかさなっていく。
「傷ついたような気持ち」の塚が、この身体のなかの、肋骨の下あたりにひっそりとあるような気がしている。
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by mayukoism | 2010-08-16 01:13 | 生活

Pattern Making

休日。
本を売りに往来座まで。
本棚に本がはいらない。
どの本もいるような気がするし、どの本もいらないような気もする。
売る本をえらぶとき、架空の自己紹介を妄想する。
この本を紹介する自分と、この本が紹介する自分をおもいえがく。
えがけない本は、分ける。
分けたそばからのぞいた知人が、これは読みたい、と1冊よけた。

休日。
ナンというのはおおらかな食べものだ。
なぜあんなにも皿をはみだすほどひろびろとしているのか。
ひとりのときはおそれをなして、ついライスをたのむ。
相手がいたのでナンにした。想像をかるがるこえるナンがきた。
テーブルを占拠したふたつのナンの隆起をまじまじ見ていたら、
『ツバメ号とアマゾン号』の見返しの地図を思い出した。
あの夏の島。

休日。
錦糸卵をつくる。てきとうにつくる。
てきとうにつくったのに錦糸卵はどこか健気で、いとしい。
このいとしさはなんであろう。
うすいのにちぎれない。くるくるまるめられたかと思えばさらに細くきざまれる。
錦糸卵、思えば冷やし中華のときくらいしか、つくらない。
あまった錦糸卵は冷凍にした。
きたるべき次の冷やし中華デイのために。

休日明け。
閉店後の店内で、棚に本をかたかた入れながら、休日のことを思い出す。
往来座をでたらうーちゃんに会って手をふったなあ、とか、
ナンを食べたら身体がどよんとなって、気がついたら寝ていたなあ、とか、
「ガリガリくん梨味」の当たり棒はどうしたんだっけ、とか、
TBSラジオ「山里亮太の不毛な議論」は毎回くだらなすぎて聴いちゃう、とか、
ハシモトさんに小説のことをうまく説明できなかったなあ、とか、つらつら思いかえしながら、
日々のぞむことはたぶん、本当はひとつしかないのだ、と気づく。

わたしは、できるかぎり誠実でありたいと思うのだった。
目に見える日常というものに対して。
本を読むことも、仕事をすることも、ブログを書くことも、だれかと笑いあうことも。
たぶん、ただそれだけなのだった。
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by mayukoism | 2010-08-07 04:39 | 生活