乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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カテゴリ:言葉( 44 )

帰京・車内にて

夜の東北道は、くらい。
助手席ごしにまっすぐな道の行く先を見ると、なにかのしるしのように、点在するテールランプが、
同じくらいの速度でうごいていく。

助手席には王子がすわり、となりでは藤井書店のリボーさんがハンドルをにぎり、ふたりとも
音楽にあわせて肩をゆらしている。
王子の白いシャツがほの暗く透けている。
豆さんとしゃべっていたはずなのに、いつのまにか眠ってしまっていた。夢は見なかった。
目が覚めると、那須高原のサービスエリアだった。

入口の「那須高原」のネオンサインがところどころ切れて、象形文字のようになっているのを見て、
笑いながら自動ドアをくぐる。
車の速さに慣れない身体をたしかめるように、食券機に向かう。
よーし、ここはおれがはらうぜ、とリボーさんが素敵なことを言う。
仙台では贅沢品ばかりいただいたので、庶民の味のするものが食べたい。
カレーをごちそうになった。
車帰京組5人でひとつのテーブルをかこみ、おそい夕食をとる。

今回の仙台でわめぞのみんなのことがちょっとわかった気がする、とリボーさんが言い、
リボーさんから見た「わめぞ」の人々について話してくれる。
リボーさんのかぶっているキャップの、そのななめ具合が、つねにあまりに絶妙なので、
あそこには魔法の力がはたらいているのだ、と思う。
天井に固定された大きなテレビは、恋するイルカの歌をうたう「さかなクン」の映像を流している。

車に戻り、席を替える。
豆さんが助手席に、王子がいちばんうしろの一人席になった。
王子がいつも発している、世界に対する熱みたいなものが、背後でひとつ、またひとつ部品を
はずすようにおりたたまれていく、そんな気配がする。眠っているのかもしれない。
豆さんが、リボーさんと話している。
話はとぎれない。どんどんもりあがる。
音楽の話から、映画の話から、野獣の話から、ふたりの話はどこまでも高く親和する。

10月に結婚するお姉さんから、式でラップを披露するようたのまれているのだ、とリボーさんが言い、
豆さんが、聞きたい!と言ったので、わたしも聞きたい聞きたい、と言った。
しばらく練習してないからなー、つまったらごめんなさい、とハンドルからはずした左手で、
リボーさんがプレイヤーを操作する。
音楽が変わった。
きっちり2分半の、ラップがはじまった。

ことばを、はじける星のようだと思った。
リボーさんが左手でリズムをきざむと、暗闇の東北道が、シャッターを切るように、
ぱしゃっ、ぱしゃっ、と明るくひらけていく。
リボーさんのやさしいことばが、キャップのななめの角度で、つぎつぎと空間にかさなっていく。
かさなったことばのすきまから、想像の姉弟の姿を見ている。想像の結婚式の風景を見ている。

ラップというものがなんなのか少しも知らない。
けれど、ことばに感知できるあたたかさというものがあるとしたら、それはリボーさんのラップだと思う。
リボーさんのことばがどれだけやさしいかは、こちらのコメント欄を見ていただければ、すぐにわかる。

豆さんがipodで流してくれたThe Ska Flames『Yo'll Be Mine』も素敵だった。
家族の誕生日にはおくりものをかならず用意する豆さんが、ある年のお母さんの誕生日、
あまりの金欠に悩んだ末、お母さんの好きなラジオ番組に、メッセージメールをだめもとで送った。
それが採用され、読まれたのだけど、リクエストを自分の好きな曲にしてしまい、
パーソナリティに「お母さんはスカが好きなんですねー」と言われて、
あっ、お母さんの好きな曲をリクエストしなきゃいけなかったんだー、という話。
そこで流れたのがこの歌。豆さんが首をやわらかくゆらす。

高速道路をおりるころになって、リボーさんがSUPER BUTTER DOG『サヨナラcolor』を流した。
むかし仲間と、また旅に出ようと言ってこれを流して、でも結婚したり子どもが生まれたりして、
結局あれから行ってないんだよなー、と缶コーヒーを飲んだ。
わめぞいいな、とリボーさんが言った。
またおいでよ、と豆さんが言った。
窓いっぱいにはりついている色とりどりのネオンを見ながら、『サヨナラcolor』を
みんなに聴こえすぎないよう歌った。
日付が変わる。

やがて、車は明治通りに入った。
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by mayukoism | 2009-06-24 04:00 | 言葉

向き合う、ということ

仙台出品本の集荷から帰ってきた立石書店の岡島さんに連れられ、
イタリア料理のお店にはいる。
昼間に歩きながら食べたチョコモナカと、アメリカンドッグしか入っていない、
下流社会的胃袋がびっくりしている。それほどに美味。
うすい生地のシンプルなピザを、知人と3人でほおばるように食しながら、
冬におとずれた仙台で、「火星の庭」の前野さんにおしえていただいた
「ナプレ」のピザにも思いをはせる。

岡島さんの話を聞きながら、「わめぞ」のみなさんというのは、
つくづく商人でありながら芸術家であるな、と思う。

作り手を名のる武藤さんやpippoさんはもちろんのこと、
名のらない向井さんも、瀬戸さんも、「おれ、文章書くのだいっきらいだもん」とわらう岡島さんも、
わたしには作り手に見える。
それぞれのひとが、それぞれのひとにしかできない「なにか」を持っていて、
それは、世界で一つだけの…なんてなまっちょろいものではなく、
とぎすまされた集中力で「なにか」に向かった結果、ほんとうに特別な、
ものすごい「なにか」が、ぽろっとできあがっているのである。

奇妙なつながりで、「わめぞ」の周辺をうろうろとすることになったわたしは、
「わめぞ」のみなさんのなかで自由な身体をゆるめながら、こころはつねに高めている。
こころを高めていないと見えないものが、ここにはたくさんある。
そういう意味では、つねに緊張している。
自分の内側にある何者かと、つねにたたかっている気がする。

ちらり、とこのトークの話もでる。
Take off Book! Book!Sendai
いつものことながら書肆紅屋さんの的確なレポート。
当日聞けなかったわたしにはたいへんありがたかった。
つむがれていく歴史の中で、はたして自分になにができるだろう、と考える。
歴史は過去で、過去はかたちになって見えるから、かたちを提示されると、
もうなにもできることはない、という気分にもなる。

ここで働いていることに、なにか意味があるのだろうか?

仕事のときは、苦しいときも楽しいときも、そう漠然と思いながら、日々自分の棚と向き合っている。
本棚は自分の思想がまるごと反映されるから、向き合うだけでもきびしい。
きびしくて、見たくなくなることもたびたびある。

岡島さんと話していると、そういう「きびしさ」のことも素直に口にしてしまう。
岡島さんは、話せば話すほど、広く、ふかく、やわらかくなるので、わたしはうっかりと
どこまでも安心してしまう。
安心して、ごちそうになってしまった。
ふわふわしながら帰宅。
ふわふわしながら、仙台のために小さなかざりものをせっせと作る。

古本縁日 in 仙台。ほんとうにもうすぐ。
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by mayukoism | 2009-06-18 04:21 | 言葉
仕事をしていると、いろんな人の思惑が見えて、その思惑にいちいち答えようとすると、
どうしてもだれかがなにかが、影になる。
そこで自分をどう納得させるかだ。
これは、だれかとなにかの問題ではなく自分の問題だ。
なにをえらびとって、なにを満たすのか。
それを決めなければならない場面というのが、決めなければならない立場というのが
想像するより、意外ときつかったり。
たのしいだけでも、いっそいいのにね、と無責任に思ったり。

そうした日常のなかで、ちいさな場面をくりかえしまきもどしたりする。
部屋の窓をつたう何者かがいるような音がして、しぼりぞうきんのような気持ちで
ブラインドをあけたら、雨で育ったキンモクセイの枝が、2階のわが窓のふもとまで
のびていたのを見た夜のこととか、
今日の「古本酒場コクテイル 店長日記」(関東へ旅行)が、すばらしかったこととか、
自転車で坂道を猛スピードでおりて、ガードレールの手前であとから来る人を待とうと思ったら、
ちょうど左折してきたダスキンのワゴン車に、笑顔で「どうぞわたって」と言われちゃって、
わたらざるをえなかったこととか、

どうでもいいことばかり。
ぜんぶ過ぎていく。

過ぎていくものを、過ぎていくからいいんだなんて、知ってるみたいに言ったりしないで、
これ、どうにかのこせないのかなあ。
できたら言葉でのこせないのかなあ。
言葉ってそういうもののためにあるんじゃないのかなあ。
と、ふらふら渡る、五月晴れのお茶の水橋。
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by mayukoism | 2009-05-16 00:57 | 言葉

水色のさよなら

朝から強い風が吹いて、歩道につつじの花がまるごと、なにかの罠のように点々と落ちている。
つつじを踏まないように歩くことと、つつじを踏みつけて歩くことと、同じくらい傲慢であるような気がする。

沖縄へ旅立った、お世話になった取次会社のMさんからメールが来た。
Mさんは前のブログに書いた、タツノオトシゴのおじさんである。
奥さんが沖縄出身で、あなたが定年になったら沖縄に帰りたい、とずっと言われていたのだそうだ。
そしてほんとうに行ってしまった。

冬の終わりにメールを出すと、おまえ、ぎりぎりだよ、と返事がかえってきて、
もうじきに旅立つと言うので、あわてて約束をとりつけたら出発の前日だった。
おじさんばかりの送別会にまぜてもらった。
おじさんの飲み会はがんばらなくていいから好きだ。
もう、いっそのことおじさんになりたいくらいだ。

菅原克巳にゆかりのある方が幾人かいたのと、Mさんはたいへんな本読みなので、
まあどちらも持っているだろうなあ、と思いながらも、『陽気な引っ越し』(西田書店)と、
『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)を餞別に選んだ。

雨の湯島で迷ってしまい、Mさんが駅のそばまで迎えにきてくれた。
おそいっ、と笑われた。主役を来させてしまってスミマセン、と言ったら、いやいやと照れていた。

湯島の小さな居酒屋の2階を貸しきって、ゆるゆると送別会はすすんだ。
銀紙に包まれたとっておきの清酒がうやうやしく出され、Mさんがひとりひとりについでいった。
どなたかが歌謡曲の本を持っていて、そのなかから一曲、Mさんが歌うことになった。
Mさんはわざとぴーんと背筋をのばして笑いをとると、目を閉じた。


水色のワルツ
【作詞】藤浦洸
【作曲】高木東六

1.君に会ううれしさの
  胸に深く
  水色のハンカチを
  ひそめる習慣(ならわし)が
  いつの間にか
  身に沁みたのよ
  涙のあとを
  そっと隠したいのよ

2.月影の細路を
  歩きながら
  水色のハンカチに
  包んだ囁きが
  いつの間にか
  夜露に濡れて
  心の窓を閉じて
  忍び泣くのよ


忘れてはいけないと思って、きっと持っているだろうけれどこれ、と2冊の本をわたした。
やっぱり2冊とも持っていた。
『山之口獏詩文集』をふとひらいて、おまえこれサインしてくれ、と言うので、価値がさがりますけど、と
言いながらみひらきのところに名前を書いたら、『陽気な引っ越し』には全員で寄せ書きをすることになり、
ペンとともにまわされた。

菅原克巳の話になり、姉、高橋たか子さんの話をしたら、えらく驚愕された。
いや、これは往来座の瀬戸さんが…とは言えなかったので、ある古本屋の方がブログで書いていて、と
説明した。お姉さんの詩もとてもよいのだとその人は言っていた。
その他に『遠い城』の西田書店版の話や、小沢信男さんのお話などおうかがいする。

あなたの話はいつも聞いていた、とその人に言われた。
Mさんは、よくあなたの話をしていた、と。
そんなことMさんはひとことも言わないし、知らなかったです、と言うと、まあ、ああいうひとだからね、と
その人は笑った。

そのときはじめてまずい、と思った。自分の眼球にいっぱいの塩水が、表面張力でくっついていた。
でもそんな雰囲気じゃない。なにしろこれは「陽気な引っ越し」なのだ。

Mさんのもとに、その『陽気な引っ越し』が戻ってきた。数々の名前と筆跡をながめて、
あんがとございます、とMさんは言い、かばんに本を丁寧にしまった。
もうこれも着ないんだよお、と取次のくたびれた作業着を出した。

御徒町駅の改札で、Mさんと握手をした。
これで最後じゃないですよね、また会えますよね、と手を握って言った。
おお、またこっちに来ることがあるよ、そのときは連絡すっからよ、とMさんはいつもの調子で言った。
安心して手をはなした。ではまた、また会うときまで。気をつけて。

ホームで塩水がとまらなくなってしまったので、お手洗いに入って一本電車をやりすごした。
さよならに慣れることなんてできるんだろうか。それがどんな小さなさよならであっても。
たった一日のさよならでも、もしかしたらもう一生会えないさよならであっても、今日が昨日になることにさえ、
いつまで経っても慣れないのだわたしは。

Mさんから来たメールには写真が添付されていて、シーサーのある家が写っていた。
参加できなかったのだけど、混ぜてもらったみちくさ市のうちあげで、たまたま店先のシーサーを見たとき
そのことを思い出していた。
このシーサー、瀬戸さんに似てるよー、とだれかが言ったのだけど、だれが言ったのだったか、
もう思い出せない。
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by mayukoism | 2009-04-28 04:16 | 言葉

夕暮れの鮮度

仕事をしていると夕暮れ空を見ることがない。441号線のゆるやかな坂道を
夕日に向かってくだりながら、たいしたことは考えていない。中華料理屋の前で
お惣菜を売る女の子は今日はチャイナドレスじゃないな、とか。
スピーカーから流れてきた歌謡曲を聴いて、日曜日のことを思い出す。

すぐれた創作というのは、そこにこめられた「思いの鮮度」ではなく、
「風景の鮮度」なのだと、こないだコクテイルで岡崎さんの歌を聴きながら
ふと思った。うれしい・せつない・かなしい・さびしい、と喚くまえに、
その目にうつるものを丹念におうこと。それを手垢のついていない言葉で伝えること。
それは「かなしい」よりも「かなしい」そのものとして、受けとめる人の手のひらに
もう一度うまれる。

岡崎さんの歌声はおしゃべりの声とややちがう。
おしゃべりの声よりも乾いていて、息を吹きかけたらとおくまで燃えそうな冬の空。
2日前に4ヶ月分残っていた定期を失くして、気持ちが変に大きくなっていたせいか、
2冊も本を落札した。たぶんこんなことは二度とないです。
ふと思いついてメモをしたので、当日のセットリストをこちらに記しておきます。

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3/29 岡崎武志バースデイライブ in高円寺コクテイル

・春だったね(吉田拓郎)
・ルームライト(由紀さおり)
・乙女のワルツ(伊藤咲子)
・わたしの宵待草(浅田美代子)
・私は忘れない(岡崎友紀)
・思秋期(岩崎宏美)
・息(詩・谷川俊太郎、曲・岡崎武志)
・蕎麦屋(中島みゆき)
・永遠の嘘をついてくれ(中島みゆき)
・スカーフ(イルカ)
・FUN(井上陽水)
・白いページの中に(柴田まゆみ)
・ハイライト(吉田拓郎)
・あざやかな場面(岩崎宏美)
・さらば恋人(堺正章)
・なごり雪(イルカ)

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夕日はみるみる落ちていく。
小学校の屋上で、むいてもらったオレンジみたいにころころしていた太陽はもう、
アパートの上まで降りてきていて、こうこうと国道を照らす。物質、というより
何もない丸い、あかい穴のよう。
やがて、あらゆるコンビニの明かりが夜を感知してとがりはじめた。
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by mayukoism | 2009-03-31 20:14 | 言葉

詩のいとなみ

詩のことを知ろうとすると、
詩が逃げていく。

詩とは書くもの?
それとも生まれるもの?
はたまた語るもの?
さては歌うもの?

なぜあのひとは詩をつくるのだろう。
「詩人」と呼ばれるときあのひとはどんな気持ち?

詩の優劣とはなんだろう。
一億総詩人?
詩は時とともにふるびますか。
だれがそれらを詩であると決めたのですか。

詩のことを知ろうとして、
詩人たちの書く本をゆっくり繰ってみるけれど、
答えのようで答えでないようで、
少なくとも胸のくさはらにリンゴはすとーんと落ちてこない。

くさはらにほほをつけて眠るとほほがくさのもようになってそこがしっとりとしめっているのだ

そのしめりけに詩がありそうだとゆびでさぐって見てみるけれど、
やっぱりそこから詩は逃げていく。
いつのまにかそれは、
枕にかぶせたタオルのあとになっている。

ちりぢりとそこにあるようなふりをして、
さも話しかけてほしそうにもじもじ立っているけれど、

詩なんてほんとうはないのではないの?

まなざしは見ることによってしか生まれないのに、
まなざしそのものは見えないのだ。

詩なんてほんとうはないのではないの?

自分のことばっかりしゃべってないでほんとうのことを言ってよ。
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by mayukoism | 2009-03-06 00:14 | 言葉
明日の朝もはやいから、はやく寝ようと思っていたのに
お風呂のあとの、濡れ髪のままで、
頭の芯のところをぼんやりさせているのが好きだ。
いまこうやって起きているのは、たまたまYouTubeで
二階堂和美の歌を聴いてしまったことと、
荻原魚雷さんのブログを読んでしまったからで、
二階堂和美というひとのことはよく知らないが、
2008年12月17日の日記に書いている、
文筆家のKさんからいただいたCDにこの人の歌が
入っていたので、なんとなくYouTubeの画像を
見つけて聴いてみたらおそろしくよくて、
思わず急いでとめてしまった。
本もそうで、これはすごい、と思うと閉じてしまう。
呼吸ができない。だれでもいい。つかまえて
この本がすごいと言いたい。走ってつかまえて、
これがどんなにすごいかをあなたに知ってほしいのだと。

言いたい。

が、つまらないことに一応常識的な感覚を持ち合わせて
しまっているので、自分を落ち着かせるために一度閉じる。
そこから離れる。離れて体勢をととのえてからまたひらくのだ。
いま、二階堂和美の歌を聴いてこれはまずいと思った。
いま開店しているCDショップなんてあるわけないし、
あったとしてもこのひとのCDはないだろうし、それよりなにより
いつものことですが明日は6時起きです。
がまんがまんと、また頭の中をぼんやりさせて、
魚雷さんのブログを見たら菅原克己のことが書いてあって、ああ、と思った。

仙台の火星の庭で、ご好意でいただいた「古本の森.文学採集ノート」を
読んだときもそうだったのだが、魚雷さんの文章を読んでいると、
わたしは本当に条件反射で涙が出てしまうのだった。
それは魚雷さんが言葉の力を、文学の力をとても深く知っていて、
しかしだからと言って何かをおしえさとそうとしているわけではなくて、
つねにその言葉にどうしようもなく揺り動かされていて、
その揺り動かされ方が切実で誠実だからだ。
魚雷さんの文章を読んでいると、ここに書かれているこの世界、
この言葉の世界に行きたい。いますぐに行きたい。
そのようにつよく願って、願いながら濡れ髪はゆっくりと冷えていく。
濡れ髪がわたしより先に夜になる。





やや感情のままに突っ走った文章を書きました。ブログ、というものがいまだに
ちょっとおそろしいのでこういう文章はいつもなら削除するか推敲するのですが、
たまにはこのままのせてみます。
最近の自分の文章はややゆるんでいるので、近々ひきしめないとと思っている。
ここからはだれなのかわからないのですが、読みづらかったらごめんなさい。
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by mayukoism | 2009-02-17 01:45 | 言葉

目を閉じて旅をする


真夜中、遠いような近いような国で新しい大統領が誕生するという、
その就任式の前に、『アメリカの黒人演説集』(岩波文庫/荒このみ編訳)の
トニ・モリスンの章をひらいて、これがすごくよかった、と知人がいうので、
演説集というから政治家ばかりが収録されているのかと思ってた、などと
言いながら紙を繰るうち、涙が出たのであっと思った。

この、感情をともなういびつな体を、いつでも言葉だけが遠くにはこぶ。
小説や詩や会話や歌や、体がさまざまなかたちの言葉のフィルターを透過して、
はたと目をあけたとき、自分がまったく別の場所に来てしまったと気がつくときがある。
目の前に羅列する記号がしめす意味を追ううちに、どんどん意識が
記号の中に入ってしまって、ふりほどけないほどがんじがらめになってしまって、
あれっと顔をあげて自分がいる現実の世界をあらためて見たとき、
その世界はいいものでもわるいものでもなく、ただ違うものに見える。
違うものに見えて、なぜかはわからないけれど涙が出てしまうときがある。
鼻をかみながら草原のような人々の群れと、画面の中央におりている
赤いネクタイをみていた。

水曜の夜はサザンオールスターズ、98年夏のライブビデオを観た。
浜名湖にて、27曲+アンコール5曲のぶっ通し野外ライブ。
サザンの歌は、切なさだったり楽しさだったりくだらなさだったり、それはおそらく
人によって異なると思うのだけど、自分のいちばんやわらかい部分と親和する。
やわらかくて戻れない時間、最近だったり昔だったり、たぶんそういうその人にとって
どこか唯一の。
だから、並んで観ていた知人の口ずさむサザンと、わたしの口ずさむサザンは
きっと違う。
違うけれども、イントロにうわーと興奮したり、歌詞のすごさに身をよじったりする
今のこの時間は、同じ場所で同じものをみている、ような気がする。
というのもひとりよがりかもしれないけれども、まあいいだろう。

日記なんてそんなものだ。
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by mayukoism | 2009-01-23 03:20 | 言葉

2008年から2009年

2008年から2009年にかけての短い時間に、わたしは正しさについて考えていた。
正しさとはなんだろうかと。

わたしにとって、正しさはつねに自分の外にあった。
正しさは自分以外のだれかが規定するものであった。
わたしは正しさを規定するだれかや、なにかを乱さないために、いつだってその正しさを
全身でうけおった。
そこに「わたし」は必要なかった。
だれかの正しさがあればよかった。
それで「だれか」の安眠がたもたれるかもしれないのなら、「なにか」が淀みなくきよらかに
流れていくのなら、それがわたしの正しさだった。
いったいそこに何の不自由があるというのか。

2003年、27歳の冬に8年勤めた書店が倒産した。
倒産することは前々からわかっていた。小手先で日にちをひきのばしていただけで、
いよいよ、という気持ちだった。閉店後の店内で残った社員女の子4人で棒銭を
ぜんぶ割った。小銭のいっぱい入ったリュックを一人が背負って、夜明けちかい
住宅街を自転車で連なって走った。
その年の春に家を出て、別の書店でアルバイトをはじめ、夏には別の書店に移り、
同じころ、わたしの20代の「正しさ」のほぼすべてを構成していた人間とはなれた。
そのときわたしははじめて「正しさ」がいったい何なのか、まったくわからなくなった。

自分の「正しさ」について、自分の力で思考しなくては生きていけないのだと
わたしはそのときはじめて言葉ではなく身体で知ったのでした。
遅すぎるけど、もう仕方ない。
そのときはそのときで、時間が仮に戻ったってたぶんそのときでしかない。

2008年という年は、心情的には2003年とおなじくらいはげしい変化の年だった。
わたしが考えて、ぼんやりとではあるけれどもこれかもしれないと思えた正しさが、
決定的にだれかを傷つけることが、なにかを乱すことが、本当にあるのだった。
それをせおっても、わたしが選んだぼんやりとした「正しさ」の先をもっと見たいと思ったのだ。
2008年が終わろうとするとき、わたしは屋根から雪の落ちる音がときどきしずかにひびく、
北国のお家の中にいて、紅白歌合戦を見ていた。紅白歌合戦をこんなにきちんと見たのは
はじめてだったと思う。2007年の終わりには、まさか来年自分がこんなところにいるなんて
想像もできなかった。
遠くまできてしまった。
涙ぐんでいるんだがいないんだかよくわからない、氷川きよしのつるんとした顔を見ながら、
わたしは考えていた。わたしの正しさって、いったい何なんだろう。

2009年は、2008年に出会えたさまざまな人や、思想や、言葉や、そういったすべてのものに
自分の力でなにかしらの裏づけをしていかなければいけないと思う。
自分に何ができて、何ができないのかをちゃんと知らなきゃいけないんだと思う。
その中で、ひとつでいいから自分がどこに行っても、だれといても、だれがいなくなっても、
「これだ」とさしだせる何かがほしいと思う。
そのためにどうすればいいのかは、実はちょっとよくまだわからない。
とりあえず疑問をそのままにしないこと。

新年早々、個人的なことを書いてしまいました。
あけましておめでとうございます。
ここからはだれなのかわからないのですけれど、今年もよろしくお願いします。
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by mayukoism | 2009-01-09 00:37 | 言葉
読解力、があるように音解力というのもあると思うのだよ。
あるひとが選曲したCD-Rを聴いて、

・京都の大学生(くるり)
・あなたと歩くの(二階堂和美)
・そわれ(Metro)

この並びがすばらしく、この3曲のみをプログラムして、くりかえし聴いたりしている。
ここで「この歌がよい」と思う自分のアンテナというのは、詩に拠るところがかなり大きい。
詩が先にあり、付随する音がある。
詩と音はつらなり不可視の立体となり、感性の回路をごつごつと通過する。
そのごつごつがここちよかったり、自分にとってあたらしいと、詩の意味がすりきれるまで
何度でも聴く。
では、詩のない曲や詩の意味のわからない洋楽についてはどのように聴くのかというと、
そこが問題で、聴きかたがよくわからないのである。
たぶんわたしは音楽を「聴く」というよりも音楽を「読んで」いるのだと思う。
音楽を感じられるかどうか、という点において多少のコンプレックスがある。
音楽がなくても、たぶんなに不自由なく生きていけるだろう。
では、詩がなかったら?
どうだろう、どうだろうな、きっともっと長生きしてしまうのではないかな。
それもいいのかもしれないよ。

今日もデートは左京区
大学近くの喫茶店
はよ大人になってくれ
原チャで来はったわ

(くるり『京都の大学生』より)

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by mayukoism | 2008-12-17 01:44 | 言葉