乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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カテゴリ:言葉( 44 )

冬の火

暗闇に、
目覚めはじめたまぶたのように、
赤い小さな火がゆっくり灯って、
こちらに近づいてくる。

しばらくすると、
ゆらゆら黒い人影が見えて、
煙草か、と気づく。
赤い火とすれちがう。





役に立つ情報が
この身体にはおもすぎるので、
ときどき漏斗のように
感情ばかりが漏れていきます。

意味のない手紙を書く。

写らないカメラで撮る。

ただ風景を通過させる媒介としてこの身体を存在させる。

その通過証明のためだけに
言葉をつぶやけたらそれだけでよいのだと、
世界のためにちょうどいい言葉をさがしながら
わたしは思う。




ここは星雲のような土地。
あなたからわたしはたぶん見えない。
この場所で、
自分だけの火を所有する人に、
すこしだけ見とれていた。

そういう季節のことだ、冬とは。
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by mayukoism | 2009-12-17 00:29 | 言葉

以前以後

ビニール傘は夜なら夜の、昼なら昼の屋根になる。
ビニール傘のようにありたい。



夜があけて、いつもの駅に降りたち、うすっぺらい風を頬にうけながら歩く。
橋から見る神田川に白い空がうつると、遠近の感覚が一瞬ゆがむ。

昨晩、ここでcomamonoyaさんと手をふった。
行くはずだったお店が貸切で、ふたりともろくに店を知らない。
どこでもいいよね~とふらふら歩きながら、それでもcoma(略)さんのおぼろな記憶をたどって、
べつの洋食屋をさがす。
奇跡的にたどりついたが、そこも貸切。そういう時期よね~と言いながら、
comaさんが入ったことがあるという、すぐそばのチェーン店にはいった。

ふたりでこんなふうに会うのははじめてで、そもそもどうして会うことになったんだったか、
よく思い出せない。
ゆるやかにゆるやかにあてのないおしゃべりは流れ、川のようになり海のようになり、
気がついたらとりわけたパスタを食べる手が完全にとまっていた。
すいません閉店なんです、とお店の人に言われてあわてて店を出る。
おしゃべりのつづきをしながら歩いていると、すぐに駅についてしまう。
comaさんこっちですよね、と言うとcomaさんはいちじくの実のような目をくりくりとさせて、
送っていく、と言う。わたしの路線もすぐそこなんですが。
そしてまたそこでおしゃべりのつづきをする。

そのひとがいるのといないのとでは、場の雰囲気ががらっと変わってしまう。
そういう影響力をもった人がいる。影響力にもさまざまな種類がある。
comamonoyaさんが場にあらわれると、みんながどこかで、あっcomamonoyaさんだ!と思う。
実際に声に出したりもする。
comaさんはひとの先に立ってうごくような人ではない。けれどその場にいるひとたちは、
たぶんどこかでcomaさんがどこにいるかをたしかめて、たしかめるたび大丈夫だ、と思う。
なにが大丈夫かはわからない。でもたぶん、なんとなく大丈夫なんだ、と思う。
そして、あのいちじくの目のようにまるい気持ちになる。
やさしいような、でも隙さえあればいたずらをしかけたいような、こどもみたいな気持ちになる。

噂話も、妄想話も、野望の話もたくさんして、もうそろそろということで手をふった。
わたしはリンゴと「にわかせんべい」をいただき、comaさんには魚雷さんの文章の載っている『ちくま』をわたした。


そうして夜があけて、朝になった。


通勤でとおる道に、昨日comaさんとおしゃべりした店がある。
今の店に勤めるようになってから、何度とおったか見当もつかないようないつもどおりの道で、
でも、この道沿いにある、昨日までは知らなかったあの店を、今朝のわたしは知っている。
地下に降りる階段で、やけに大きな音量で音楽が流れているけれど、でも店内に入ればしずかよ、
と言ったcomaさんが扉をひらくとしずかになった、そのことをわたしは知っている。
はじの席に座ると真上に明かりがなくて、comaさんの顔が半分やけに暗くなった、
あの景色のことを今日は知っている。

そうすると、いつもの道の見え方ががらりと、すこーんと、変わる。

この不可逆の感覚。
同じ道をなんども通とおったのに、あの店を知らなかった自分はあっという間にいなくなった。
知らなかった自分はどこへ行っちゃったんだろう。

店の前をいつもと同じようにとおりすぎながら、こころに昨晩の記憶を落として、
知らぬふりで、だれもいないはずの職場へ向かった。
神田川はあいかわらず白い空をうつして、まだうまく書きだせない便箋のように波立っていた。
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by mayukoism | 2009-12-06 03:32 | 言葉

白米と夜

深夜に新米を炊く。

炊きあがった新米をほぐしながら、視覚を部屋の外の夜の中に置いてみる。

動きつづける明治通りをくだり、暗い窓の連なる路地をぬけて、

曲がり角にひとつだけうかぶ白い窓が見えたら、それがきっとこの部屋です。

生活のある部屋の明るさは、蒸気した新米の明るさ。

ひしめく新米の白さは、今日の月のあてどない白さ。

そう遠くないけれどまじわらない場所で、ひとりひとりが今日の月をさがして、見あげて、

吸い込まれたり遠回りしたりした。そしてたぶんもうねむりについている。

わたしは起きている。

起きて、小分けにした新米をラップにくるんでいる。

雨の音がする。

わたしの視覚はふたたび身体をはなれて、雨雲の向こうの今日の月をさがして、

電線をスタッカートでとびこえる。

目を見てちゃんと伝えられるように。

さようなら、夜。

さようなら、窓。

さようなら、今日の月。

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by mayukoism | 2009-12-03 04:01 | 言葉

きれはしのこと

まだ言葉になる前のきれはしのようなものが、
ひらひら、ひらひら、とあたまの中でひるがえっていて、
そのきれはしを言葉にうつそうとするとき、
そのきれはしに対して絶対的に嘘がつけない。

原稿を書きながら、自分のなかにそういうかたくなさがまだ残っていたことを知る。

つくづく自分は文章を書くのがうまいわけではない、と痛感する。
きれはしを言葉にしようとするとき、これだと思う文章に一発でたどりつけることは、
わずかなセンテンスであっても皆無と言っていいほどない。
だからすこしの文章を書くのに、途方もない時間がかかる。
イメージを何度でもあたまの中でひるがえす。
イメージと自分と言葉がぴったりとよりそうまで何度でもくりかえす。

本をあつかう仕事がたのしくないわけではない。
なにもないところから棚を作りあげたり、だれかのもとめている情報にたどりついたときは、
それはほんとうにうれしい。
本をあつかう以外の仕事にはたぶんつけないし、つきたいとも思っていない。

けれど、本をあつかっていればそれで済むかというと、商売は、ひいては書店はそうもいかない。
書店の規模が大きければ大きいほど、本をさわる時間は減る。
そうすると、自分がなんの仕事をしているのだったか、たまにわからなくなる。
真四角の計算機(しかもぽんこつ)になったような気分になる。

効率的な仕事ばかりしていると、自分の場合はなぜだか文章もうまくかけなくなって、
文章を書くために生活しているわけではないのだけれども、
自分の納得できる文章を書けないことほどくやしいことってない。
つくづく、わたしがほんとうにきちんと向き合って、向き合おうとできるのは、
文章と、これまでに出会った数人の、こころから好きな人たちだけなんだなあと思う。
今の仕事は、瞬間的にそういう気持ちになることはあるけれど、そこには含まれない。
だからと言ってどうあることもできないけれど、
ただ、そうなんだなあと、思っただけだ。
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by mayukoism | 2009-10-31 02:06 | 言葉

WAMEZOのこと

「wamezo」は、まわる遊具みたいだ。
愉快なことを動力にして、どこまでも、いつまでもまわりつづける。
愉快なことが多すぎるので、速度はどんどん増していく。
わらいながら、遠心力でふっ飛ばされないようにしがみつく。
それがまたたのしいので、わらう。
もう、だれがだれなのやらさっぱりわからない。
「wamezo」は人も本も猫も海も巻きこんで、ぐるぐるとまわりつづける。

NEGIさん邸で10月生まれを祝う会がひらかれ、あたたかい手料理をごちそうになった。

なにかを楽しみにする気持ちには、たぶんアルコールに似た成分がふくまれていて、
着く前から脳内無重力状態、そこへきてふわふわした足元をさらにざっばーん、とすくう
大波のような告白があり、興奮さめやらぬまま解散。
あのあとの部屋の片づけ、ぜったいに大変だったと思う。
NEGIさん、なにもせず帰ってしまってごめんなさい。
気分は月面散歩のまま、Uさんとふたり新宿で山手線に乗り遅れる。
次の列車が来るまでの20分くらいを、Uさんと食べものの話や瀬戸さんの話などして過ごす。
目白に着くと酔っぱらい3人がホームで待っていてくれた。ありがとう。

帰宅して、湯船につかりながら今日のできごとと、「wamezo」について考える。

大島弓子『四月怪談』の映画本(柳葉敏郎と中島朋子が表紙)をNEGIさんが見せてくれて、
ムトーさんと大島弓子の話をした。
大島弓子作品について話すムトーさんが、あんまりやさしい目をするのでうれしくなって、
好きな5作をあげるはずが何作もあげてしまう。
5本じゃないじゃん、とムトーさんはわらった。
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by mayukoism | 2009-10-27 06:34 | 言葉

くぼみから星を見る

どこにいてもここにいない。
そんな気分で日々は過ぎていく。
季節はうつろう。

信号との相性がいい日とわるい日というのがあって、赤信号がつづくとすこし身構える。
今日の自分は「流れ」とあまりうまくいっていないのだな、と思い、いろんなことをちょっと用心する。
占いも運命的ななにかも、さほど信じてはいない。
ただ、いまの自分がどうあがいても変えることのできない流れのようなものはあると思う。
その「流れ」は、これまでの自分の行動の蓄積であったり、周囲の他人の性癖や習慣の集合であったり、
もとをたどっていけばどこかしらにたどりつく、実体のある「流れ」であると思うけれど、
「流れ」はさまざまな要素をふくめて広大なので、いまさら小さな自分がどうこうしてもしかたない。

「流れ」のことを考えるとき、こころに浮かぶのは、『スティル・ライフ』(池澤夏樹著/中公文庫刊)の
はじまりの一節だ。

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる
容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに
立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。
世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。


池澤夏樹がどういう作家なのかあまり知らずに作品を読んだとき、この冒頭の文章は
超新星誕生の映像を見るように鮮烈だった。
池澤夏樹の小説ならいまでもこの作品がいちばん好きだけど、だからといって
イコール池澤夏樹が好き、ということにはならない。『スティル・ライフ』が破格に好きなのだ。
特定の問題意識や書き続けるための不変のテーマが、作品のなかでまだ明確にはなっておらず、
なにより言葉の選び方が少し揺れている、そういう時期にしか生まれない不安定さをかくした小説で、
そのわずかな不安定さが、この作品をくらくらするほどうつくしくしている。
『星に降る雪』は『スティル・ライフ』につながる小説だと思うけれど、
もう今ではまとまりすぎて上手すぎてしまって、そうなるとなんだかすべてが用意された物語のように
見えてしまう。これはたぶんに読む側のわたしの問題である。

「世界」に対して自分が立っている、というイメージはあまりない。立っているのでなければ
なんなのだろう、と歩きながら考えていて、そうだ「くぼみ」だ、と思った。

というのも、たまたま散歩の延長で訪れた古書現世で、祝・誕生日の向井さんが値付けをしていた
『東京人』のバックナンバーのなかから、1991年3月号の「東京くぼみ町コレクション」特集のなかに
雑司が谷が載っているのを向井さんが見つけた。へえ、どれどれと読ませてもらったら
この特集自体がとても面白く、特集以外にも川本三郎の野口富士男インタビューなどが
掲載されていて、新宿展用の商品だったのに、わがままを言っていただいてしまったのだ。

くぼみに水が溜まるように、
都市にも時間が佇み、
ゆっくり流れる町がある。


と、特集の冒頭に記されている。
佃島、本郷から神楽坂まで、「くぼみ町」はその町の歴史をなぞり、さまざまな形で存在する。
そして、その町のなかのもっと小さな、局所的なくぼみ。
山のようにそびえる存在にも、海のように荒れくるう存在にもならないしなれない。
ただひっそりとくぼんで、雨がふれば少しの水をあつめて、晴れればだれかをのぞきこませて、
つまづいてしまったらごめんなさい、の意地悪さもふくめて、
それくらいの「くぼみ」で「世界」と対峙できたらいいなあと、学習院へつづくゆるい坂をのぼりながら
ぼんやり思っていた。

『スティル・ライフ』の一節は以下のようにつづく。

 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。
きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の
境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある
広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と
調和をはかることだ。
 たとえば、星を見るとかして。

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by mayukoism | 2009-10-14 05:14 | 言葉

想像の水母

あたまの中の、変な位置に変な向きのソファがあって、
なんでこんなところにソファがあるんだろう、
これをこちらの、もっとちょうどいい場所に、こうゆったりとすえつければ
それだけでほっと息がつけるのに、それなのに、

という感じの偏頭痛。
金木犀がおとといから咲きだした。

図書館で借りた池田澄子『あさがや草紙』(角川学芸出版)を読んでいる。
短詩型の作家の散文は、ことばの選びかたがすみずみまでこまやかなので安心して読める。

「おもうわよー」の話がいい。
あのですね、ある島ではわかれるとき「さようなら」とか「じゃーね」などとは言わない。
「おもうわよー」と手をふるのだという話。
あなたがここからいなくなっても、ここであなたをおもうわよー、という、
こんなにうれしい別れの言葉があるだろうか、という話。
もうあなたに会うことがなくても。

池田澄子は戦場で父親を亡くしている。
だからなのか、俳句も散文も、視界のどこかにいつも死がある。
けれどそこに悲哀というようなものは、安易には見えなくて、
日常の続きのように、あれ?そこにいたの?というような自然さで死がある。
世界を見る目とそれを表現する言葉が同時に存在していて、
この人はそのことを、誤解をおそれずに言えば、たぶんたのしんでいる。
言葉を生むことで、死者とおしゃべりをする。

ピーマン切って中を明るくしてあげた

想像の水母がどうしても溶ける

口紅つかう気力体力 寒いわ


『池田澄子句集』(ふらんす堂)より


すごい短詩に会うと、ただすごい、と言いたくなる。いま、言いたくなる。
すごいんだよ、これすごいんだよ、と興奮しながら話して、
どこかどういうふうにすごいの?と尋ねられて、
うーんと、としばらく考えてみたけれど、どんな説明も上手にすべてを伝えられない、
とにかく読んでみて、これも、あ、これもすごいのこれも、ほら、と、
やっぱりすごいとしか言えない。
それじゃあ小学生だよ、と言われる。
まるでばかみたいなのであった。
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by mayukoism | 2009-10-09 02:30 | 言葉

正午の神保町



打ち水の跡が、見たことのない地図のようにひろがっている。
地図はじわじわと、あたりをうかがいながら夜空になろうとしている。
均一棚の背表紙が、いっせいにハレーションをおこす。
自動ドアがひらくと、なだれこんできた人々の輪郭がからまりだして、
本なのか人なのか、反転した目玉ではもうわからない。
炭酸水はどうして昼間だけでできているのだろう。
手のひらで受けようとする。そうしなければいけない気がして。
まくらでないものをまくらにするとどうして気持ちがいいんだろう。
昨晩は大辞林にタオルをまいてねむった。
ひかりは、ひかり以外のなにも生まないねとだれかが言ったから、
そのひかりでたぶんあそこの島が買えますとおしえてやった。
日が暮れたらたぶん見えなくなってしまう、
ちいさいちいさいとこなつの島だよ。
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by mayukoism | 2009-08-21 01:31 | 言葉
犬の高い鳴きごえがちかくからずっと聞こえて、昨夜はうまく眠りにつけなかった。
朝まだき、目覚めない神保町の路地ですれちがった猫と、夜にまったく同じ場所ですれちがう。
まるい尾っぽをのったり、のったりとゆらす灰色のトラ猫は、文豪の風格。
犬の声は、今日は聞こえない。今夜の寝床は見つかったのか。
深夜にぼんやりと流しみる格闘技が、小さいころからすきだ。

短歌からはなれてしばらく経つけれど、実相観入ということについては、しばしば考える。
じっそうかんにゅう【実相観入】
斎藤茂吉の歌論。子規に発する写生論を発展させて、
単なる皮相の写生にとどまらず、対象の実相に心眼をもって深く観入することが
短歌写生道の真髄であるとする。(『大辞林第三版』より)

『短歌という爆弾』(穂村弘著/小学館刊)で、はじめてこの短歌観を知った。
『短歌の友人』は未読ですが、穂村さんの短歌論は短歌を知らなくてもおもしろく、
かつ実作に役立つ。
実相観入を語るためにひかれていたふたつの歌。

ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり 斎藤茂吉

カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした 早坂類


茂吉の歌はなんかもう言葉をこえて、すげーなー、としか言いようがない。
「よい短歌」とはなんだろう、と考えるように「よい文章」とはなんだろう、とときどき考える。
見たものを見たように言葉にしようと腐心するとき、行為としての実相観入を思っている。
言葉にする前に見ること。見ていると思ってもまだ見ること。見えたと思ってもまだ見ること。
いまの自分にできるのはがんばってそれくらいで、茂吉の地平ははるか遠い。

早坂類の歌を、穂村さんは歌論でよくひくのだけど、こういう「わかりやすくてすごい」歌を
もってくるのが穂村さんはとてもうまくて、『短歌という爆弾』にはいまでも付箋がいっぱいついている。
短歌にちかづかなければ、早坂類の名前はおそらく知ることがないだろう。
第一歌集『風の吹く日にベランダにいる』(このタイトルも圧倒的。河出書房新社刊)には、
ときどき上の歌のような、ヘビー級にすごい歌がまぎれている。
すごい短歌は一行で、ほんとうに頭をなぐられたみたいな衝撃があって、早坂類のみならず、
もっと暗誦されていいような現代歌人の歌が、じつはたくさんあるのだけれど、
歌の世界はなかなかひらかれない。
短歌からはなれてみると、あらためて自分がいた場所はまぼろしだったのではないかという気さえする。

十八歳の聖橋から見たものを僕はどれだけ言えるだろうか 早坂類


帰りに寄った古書往来座で、せとさんがあっ、と声を出して入荷を教えてくれた。
『コラム等』(松田有泉/有古堂)
正式の証明」のu-senさん出版販売。購入し、帰宅してなにげなくひらいたのち、一気に読む。

u-senさんの文章はしなやかだ。筋肉や関節があっちこっちにまがる感じ。
なおかつ伝えるべきところはちゃんとおさえてあって、視野の広い人だなと思う。
u-senさんのブログのあのめくるめく強烈さは、この雑誌ではやや抑え目だけど、
その分「もう一歩先のu-senさん」に触れられた気がして、おもしろく読んだ。
個人的には「山口昌男とベン・ジョンソン」にうなずき、「米子ゆき、高速道路」では
はじめて自分が運転席にいるような感覚をあじわい(免許もっていないので)、
また、マンガ「古書仙人」の3コマ目の、小さい向井さんが笑ってしまうほど
はげしく似ている(おもわすお腹に触れたくなる)のが、印象にのこりました。
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by mayukoism | 2009-08-17 02:56 | 言葉

豆さんの手帖

真夜中の線路際を歩く。
真夜中の線路は、いくつもの導線をりんとしならせて、あかるい闇の中眠っている。
ガード下をくぐりぬけ、池袋駅西口方面へ。

わめぞの豆さんは、触れたらふかふかとやわらかそうな心の持ち主だ。
いつもは大勢の輪の中で言葉をかわす豆さんと、今日はふたりで会う。
軽口をたたくのが下手で、会話で人を楽しませることができないので、
相手がだれであっても、ふたりきりで会うのは少し緊張する。

こじんまりとしたタイ料理屋に入り、豆さんはシンハービール、わたしはアサヒをたのんだ。
豆さんは相手の目を、とても自然に見つめながら話をする。
見つめかえしてもそらしたり、なにかを言い含めたりしないので、ぽつりぽつりと言葉はほどけ、
やがてあかるくはじけていく。

豆さんの茶革の手帖を見せてもらう。リング式の、装飾のない手帖だ。
ここに豆さんは、忘れてはならないさまざまなことを書きつけていく。
「ひき肉っきんぐ」と「新居格」が一冊の手帖のなかに混在し、気になるお店の切り抜きもあれば、
パニック映画の豆さんランキングを見ることもできる。

手帖を持つと、わたしは事務的な予定でさえ過度に言葉を選び、そのうちくたびれて放り出してしまう。
豆さんの手帖はちがう。
豆さんの手帖は、豆さんのために、豆さんにとってちょうどいいスタイルで存在している。
見られることを意識せず、かつ見られることをいとわない言葉の、なんという軽やかさよ。

はじめてこの手帖を見たとき、わたしはこれを心の宝物にしようと本気で思った。

川村カオリ追悼、ということでカラオケに行く。
それにしても今年は、死ななくていい人たちがどんどんいなくなってしまう。
いなくなってしまった人つながり、ということでFishmansを歌う。
豆さんの声はキーの高い、女の子らしい声だ。charaの歌がよく似合う。

ひとしきり歌いおえて別れぎわ、ちゃんと眠らなきゃだめだよーと小さく手をふる豆さんの残像を、
たいせつな便箋をひらくように、なんども思う。

わめぞの集まりにうろうろと参加するようになってから、やるべきことを指示してくれたり、
小さな、でもかかせない負担のかかる仕事を引きうけているのはたいてい豆さんだった。
いったい、あのふかふかとやわらかな心はなにでできているんだろう。
これから、いったいどんな言葉が、豆さんの心の枝にひっかかって、書きつけられていくんだろう。

便箋を封筒にしまって、今日のできことを話しにいくために、真夜中の白いマルイ脇をぬける。
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by mayukoism | 2009-07-29 22:31 | 言葉