乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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2008年 08月 14日 ( 2 )

本屋をうろつきながら時おり人がきの向こうの外を見やりましたが、
依然、一歩を踏み出すのをためらうほどの雨でした。
たまらず携帯電話の履歴をたどり、件の引越屋に電話をしました。
あのーこれ、無理ですよね。
ええ、でもとりあえず運べるものから運び出しちゃいたいんですよね。
電話に出たのは野村宏伸でした。
となると、わたしはいま向かったほうがいいというわけですね。
ええ、そうしていただけるとありがたいんですが。

わたしはそのとき何もかもをあきらめました。
もう、ずぶ濡れになったって着替えりゃいいじゃん。
本棚だっていまさら伸び縮みするわけじゃないし入らなかったら仕方ないじゃん。
時間オーバーで引越料金加算されたらそのときはそのときじゃん。
とにかく引越が今日中に終わればいいじゃん。
開き直って考えると、この状況がたまらなくおかしくなってきました。
はいはいあなたたち(誰だよ)見てなさい、やりますとも、やってやりますとも。
わかりました、行きます。
わたしは電話を切り、やや小降りになったところをみはからって、雨中の人となりました。

アパートの前に着くと、恐縮した様子の野村宏伸が立っていました。
すみません、こんなことになるなら乗せてきてあげればよかったですね、
女性だからいやがるかななと思ったので。
わたしは少しほろりとしてかぶりをふりました。
雨は一時にくらべればだいぶ勢いを弱めていました。
このすきにやっちゃいましょう、野村宏伸が言いました。
ただ、本棚はそうとう難しいと思います。できるだけのことはやってみますが、
解体するとなるとお時間をいただくので料金加算になります、よろしいですか。
覚悟は決めていたのでわたしは即座にうなずきました。もう今日中に終わるなら
なんでもいいです、と笑いながら言うと、加瀬亮(未満)も少し笑いました。
ああ、この引越屋さんいいひとたちだ、とわたしははじめて思いました。
二人は狭い階段を降りていきました。わたしはなまこのようになった靴下をしぼって、
まだ空の部屋で本棚を待ちました。

やがて階段を、かけ声をかけながら二人が上がってきました。
少しずつ、そっち落とすな、あせらなくていいから。
主に声をかけているのは野村宏伸でした。わたしは邪魔にならないように
ユニットバスの中にひそみ、便器に座って二人の様子を見ていました。
二階にたどり着いた二人はまず廊下で、奥の部屋のほうへ本棚を逃がしました。
そこから斜めに少しずつ扉の内側へ本棚を入れてきました。
いける、野村宏伸が言いました。
玄関先でくりひろげられる出来事は、ドアの形に切り取られて全貌がわかりません。
二人の姿も見えません。しかし少しずつ入ってくる毛布にくるまれた本棚を見て、
わたしも思いました。いける。
よーし、入った。
わたしはたまらずユニットバスを出て、あああありがとうございました、と
お礼を言っていました。おそらく大袈裟でなく涙ぐんでいたと思います。
いやー入りましたねよかった、野村宏伸も加瀬亮(未)も笑顔でした。
本当にうれしかった。

さて、すべての搬入が終わって支払いの段になりました。
指定時間内に終了したので、当初の予定どおりの金額で無事済みました。
ぼくらが来る予定ではなかったので領収書は後日郵送になります、と野村宏伸が
言いました。ご利用ありがとうございました。
加瀬亮(未)は疲れきった表情で先に階段を降りていきました。彼は本のつまった
ダンボールを二つ重ねて運んでいたりしていたのでした。
わたしは財布をふたたび開いて、二人を呼びとめました。引越貧乏もいいところだし、
めったにこんなことはしないのですが、感謝していることを形にしたくて、これで
ジュースでも買ってください、と千円札を渡しました。
野村宏伸が、ありがとうございます、と本当にありがたそうに千円札を両手で
受け取ってくれました。
最後にいただいた名刺の裏は「次回ご利用時10%割引券」になっていました。

またふりだしに戻ったわたしは、この部屋を新たな始点にしていろんな場所へ行くでしょう。
いろんな人と会うのでしょう。そして自分のためにあつらえたこの借りものの部屋に
何度も帰ってくるでしょう。この部屋で歌ったり悔やんだりまるまったりするのでしょう。
今まで暮らしたすべての部屋に忘れがたい記憶があり、すべての部屋でわたしは
少しずつつよくなっていました。上手に一人でいるために。
いつかこの部屋を出るときがきたとして、そのときのわたしがどうなっているのかは
さっぱりわかりませんが、その日のわたしのためにこの「次回ご利用時10%割引券」は
大事にとっておく。

とりあえずその日、お祝いで知人と食べた日高屋の餃子とビールは、たいへん
おいしかったです。
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by mayukoism | 2008-08-14 21:26 | 生活
あの日の話をします。
あの日とは前回の日記に書いた引越決行日の、夕方以降の出来事について
お話しします。

あの日、新しい部屋のガスは無事開栓され、わたしは滅多に乗らない急行に乗って、
いそいで部屋に帰りました。
わずかに残った荷物を要不要で分け、靴の箱を運び出しやすいよう紐でしばり、
ひととおり床拭きをすると、もうやるべきことはありませんでした。
前日、引越屋さんに確認の電話をした際、17時には着くようにスケジュールを
組んでますから、と比較的自信たっぷりに言われたのですが、時刻はすでに
17時半をまわっていました。
まあ遅めでよかった、ただし夜に会う予定の友人には多少遅くなる旨のメールを
しておこう、とわたしは空になったシングルベッドに寝転がりながら、メールを打ちました。
ああ、夕方になっても暑いなあ、と思いながらゆっくりと意識が遠のくのを
人ごとのように感じていました。

小さな音で電話が鳴っていました。はっとして頭上の電話をとりました。
電話に出る前にデジタル表示の数字が見えました。「1830」。電話はもちろん、
件の引越屋さんからでした。
今用賀なんです、とその人は言いました。
18時までの予定、じゃなかったでしたっけ、とねぼけながらも言うと、
はい、あの、前の人の引越が大変長引きまして、ほとんど荷造りがされて
いないような状況の方だったそうでして、実は本来僕たちはそちらに行く予定では
なかったんですが、急遽お伺いすることになりまして、なので申し訳ないんですが、
お客様のお荷物の内容を簡単におっしゃっていただきたいのですが。

わたしはとっさに、これは本棚について話すチャンスだ、と思いました。
約束の時間を過ぎたことで少なからぬ負い目が引越屋にはあるはず。
これは多少の無理を言ってもかなえてくれるかもしれないぞ、という
寝起きとは思えない、ずる賢い思いつきです。
大きめの本棚があります、わたしは言いました。
ぎりぎり入る、んじゃないかと思うんですが。
ほどなくして引越屋が到着しました。一人は野村宏伸(ふるい)、もう一人は
いまだ覚めやらぬ加瀬亮、といった感じの、なかなか感じのいい男子二人組でした。
だいぶ待ちましたか、と聞かれたので、ええまあはい、と答えました。

さて、滞りなく搬出が終わった時点で、時刻はすでに20時をまわっていました。
楽しみにしていたので、どんなに疲れていても友人宅に寄るつもりだったのですが、
赤ん坊のいる家だし、さすがにこの時間の訪問は不可能だろう、とやむを得ず
訪問の約束はキャンセルさせてもらいました。
クリームパンをほおばりながら電車を待っていると、ちと雨が、というメールが
知人から届きました。空を見上げると、薄い雲が若干かかっていましたが雨の
気配はありません。局地的なものかしらんと思いながら、雨はやんでほしいです、
という今思うとたいへんお気楽なメールを送りました。

新しい部屋の最寄駅にもうすぐ到着というころ、再び携帯電話がふるえました。
「ひゃーすごい雨」。わたしは慌てて窓の向こうに目を凝らしましたが、暗くて
よく見えません。やがて列車はホームへすべりこみ、ドアが開いたところで
わたしは呆然としました。扉とホームのわずかなすきまに、飛散した雨が
壁をつくっていました。
夕立にこの時間は遅すぎるだろう、とわたしは思いました。
そして引越にもこの時間は遅すぎる。

あと3時間早ければなあ、予定通りに引越屋が来ていればなあ、と
わたしは半ばぼんやりした頭の中でそう繰り返しました。駅近くの書店は
外に出られない人たちであふれかえっていました。この中のだれよりも
この雨がやむことを望んでいるというどうでもいい自信がわたしには
ありました。
ここを出るあいだに。
わたしは地下道をゆっくりと抜けながら思いました。
雨がやんでいるといい。
願いは予想通り打ちくだかれました。わたしはただの雨宿りの人みたいな
顔をして、ビジネス書の新刊を手に取って眺めたりしていました。
逃避行動です。



(後編につづく)
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by mayukoism | 2008-08-14 21:20 | 生活