乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


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旅人の愛情

10月21日の日記で絲山秋子 について書いた。
間をおかず新刊が出たので手にとると紀行文であった。『北緯14度』(講談社)。
アフリカ、セネガルへの2ヶ月の旅。書き下ろしである。

絲山秋子はエッセイやノンフィクションのほうがおもしろいのではないか、と
じつは10月21日も書きながら思っていた。
絲山秋子の言葉はおそらく書き手である絲山本人と、本来は近い場所に存在する。
小説の場合、絲山はそれをなるべく遠ざけようとする。そしてその距離感はときに
揺らぐ。たぶん絲山本人にとって思い入れのある場面であったり、集中が途切れたときに、
その揺らぎはほんの少し表面化する。
それはけっして物語のながれを妨げるような致命的なものではないが、全編を省みたとき、
ところどころ輪郭がぼやけていることに気づく。
今後、それがより表面化して欠点となっていくのか、あるいはそれを武器として
利用していくのか、どちらにころがる可能性もひとしくあると思うが、
エッセイやノンフィクションでは絲山と言葉の距離感は一定である。一定して近い。
もちろん、エッセイやノンフィクションで書かれている出来事や、絲山本人であるだろう
語り手のふるまいや感じ方が現実そのものであるとは思わない。
ただ、絲山のエッセイに登場する他者に対して、絲山が常に誠実であろうとしていることは
わかる。愛情をもって見つめていることもわかる。他者に対する絲山の主観は、
その誠実さと愛情の上にあらわれる。その、思いのベクトルの強さがつねに一定しており、
フィクションを書くときのように書き手自身がコントロールしようとしていないので、
文章がぶれない。
だからなんとなく安心しておもしろいのだ。

セネガルという絲山にとっての漠然とした憧れの地が、時間と経験を重ねてどんどん
具体化していく。ただしこれはセネガルのガイドではない。もっと言えばこの本はセネガルに
ついて書いてはいない。セネガルというのは任意の土地で、これがセネガルでなかったと
しても、おそらく同じようなトーンの紀行文を絲山は書くはずだ。
あたらしい希望が必要なのだ。希望にもあたらしさが必要だ。
フィクションのなかで希望はじつは磨耗する。もっともらしい希望を創作の力で
つくりつづけようとするとき、新鮮さはどんどん失われていく。希望が記号化していく。
記号化する希望を、書き手がおそらくいちばんはじめに痛感する。
希望を記号化させないために絲山には異郷が必要だった。なぜセネガルなのか、
理由はこの本でもきちんと語られているけれども、それはまったく重要なところではない。
ただ、読んでいてその経験の切実さを感じる。言葉にすることで書き手がこの「体験」と
その土地の「存在」をどのように自分の中に生かしておこうか、どうにかして生かして
おきたいのだ、という強い意思を感じる。
そこに嘘がない、と思う。だから読み手も、書き手とものすごく近い場所でこれらの
文章を「体験」してしまう。
この愛情の体験の近さを面白がることができるかどうかで、この紀行文を
読みとおせるか、ひいては絲山秋子を読みとおせるかが決まる気がする。
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by mayukoism | 2008-12-05 02:25 | 本のこと