乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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シンプルに、絲山秋子のこと

手元に、『文學界』2003年6月号がある。
これは特集が「サリンジャー再び 村上春樹」で、ちょうど『キャッチャー・イン・ザ・ライ』新訳を
刊行したばかりの村上春樹が、「訳者解説」を寄稿している。発売当時はもちろん、この特集が
目当てで購入したのだが、実はこの号にはもう一つ忘れられない作品が掲載されている。
それが「文學界新人賞発表」。受賞は絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』。

吉祥寺のサンマルクカフェで読んだ。たまたま巻頭だったので、なんということもなしに
読みはじめたのだけれど、正直、目当ての「訳者解説」よりも、この新しい作家の出現に
わたしは少しだけ興奮した。この人はいい、と思った。
政治と病、セックスと死。こうやって素材にするとありがちと言えばありがちなのだが、
素材の突き放し方に、この小説ひいてはこの作家固有の「唯一感」(辻原登)を感じた。
いいと思ったので、当時わたしの近くにいた小説好きな人たちに、この人の行方を
追っていこうと思う、と宣言した。で、今も追っている。

絲山秋子は物語作家ではない、とわたしは思う。物語作家とはなにか。ここではその小説の
なかで起こる出来事を語る、あるいは描写することに比重を置いている作家、とする。
絲山秋子が語ろうとするのは出来事ではない。その出来事を生きる人々の「存在」、
そのものを書こうとしている。「存在」を語るために、絲山作品に欠かせないキーワード、
それが「喪失」である。絲山作品の登場人物は、何かを強烈に失った場所から生まれている。

絲山作品の魅力のひとつにその「喪失」の書かれ方がある。失う失われる、ということについて、
女性作家の作品にありがちな陶酔や、もりあげや、過度な共感を促す甘い表現が
選択されていない。絲山はおそらくそれを、かなり意識的に排除している。「喪失」の前で
登場人物はクールに、時に滑稽にふるまう。そして、どうしようもなくうちのめされている。

共感を拒絶する「喪失」。
この、何もかもが失われてしまったように思える暗い場所で、登場人物はだれかに出会う、
あるいはだれかに再会する。それは現実には存在しない「だれか」であったりもする。
その邂逅をひとつのきっかけにして、「存在」の曖昧な手触り、のようなものを少しずつ少しずつ
回復させていく。この物語構造はどの絲山作品にもあてはまる。

そこに陳腐な「救い」を感じて、もしかしたら興ざめする読者がいるかもしれないとは思うが、
最終的に小さな、そしてシンプルな希望にたどりつく絲山作品のこの構造を、わたしは
ぎりぎりのところで支持する。なぜなら「最終的に小さな希望にたどりつくこと」こそが、
絲山作品の存在理由だと思うからだ。ただ、これはバランスとしてはあやういので、
これから先、たとえば「吉本ばなな」が「よしもとばなな」になってしまったような「転落」の
可能性はあると思う。どうかそうならないでほしいと切実に祈るばかり。

で、新刊の『ばかもの』(新潮社)を読んだ。絲山作品で、一等好きな作品は今まで
『ダーティ・ワーク』(集英社)だったのだが、これは誰彼薦められるような傑作というわけでは
なかった。むしろ傑作の前段階という感じだった。『ばかもの』は『ダーティ・ワーク』に
つらなる、『ダーティ・ワーク』よりも確実に完成された作品である。でも、わたしは、
絲山秋子はもっといけるし書ける、と(偉そうに)思っている。だから傑作とは言わない。

『SPA!』2008年10月21日号で福田和也が、『ばかもの』を絶賛して
「村上春樹を駆逐する存在になるんじゃないか」というような発言をしているけれども、
それはちょっと違うかな、と思う。村上春樹と絲山秋子とは、作家としての存在意義が
まったく違うし、いわゆる「文学」について、向かっている方向も異なる。
たぶん「それくらいすごい」ということを言いたかったんじゃないかと思うけれども、
そうやって乱暴に並べられてしまうことは、特に絲山秋子にとってあまりいいことではない。
絲山秋子をそんなところに置いてはいけない。絲山作品はもっと「個人」として読まれて
いいものだとわたしは思う。
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by mayukoism | 2008-10-21 20:11 | 本のこと