乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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本棚、豪雨くる、その他の出来事(後編)

本屋をうろつきながら時おり人がきの向こうの外を見やりましたが、
依然、一歩を踏み出すのをためらうほどの雨でした。
たまらず携帯電話の履歴をたどり、件の引越屋に電話をしました。
あのーこれ、無理ですよね。
ええ、でもとりあえず運べるものから運び出しちゃいたいんですよね。
電話に出たのは野村宏伸でした。
となると、わたしはいま向かったほうがいいというわけですね。
ええ、そうしていただけるとありがたいんですが。

わたしはそのとき何もかもをあきらめました。
もう、ずぶ濡れになったって着替えりゃいいじゃん。
本棚だっていまさら伸び縮みするわけじゃないし入らなかったら仕方ないじゃん。
時間オーバーで引越料金加算されたらそのときはそのときじゃん。
とにかく引越が今日中に終わればいいじゃん。
開き直って考えると、この状況がたまらなくおかしくなってきました。
はいはいあなたたち(誰だよ)見てなさい、やりますとも、やってやりますとも。
わかりました、行きます。
わたしは電話を切り、やや小降りになったところをみはからって、雨中の人となりました。

アパートの前に着くと、恐縮した様子の野村宏伸が立っていました。
すみません、こんなことになるなら乗せてきてあげればよかったですね、
女性だからいやがるかななと思ったので。
わたしは少しほろりとしてかぶりをふりました。
雨は一時にくらべればだいぶ勢いを弱めていました。
このすきにやっちゃいましょう、野村宏伸が言いました。
ただ、本棚はそうとう難しいと思います。できるだけのことはやってみますが、
解体するとなるとお時間をいただくので料金加算になります、よろしいですか。
覚悟は決めていたのでわたしは即座にうなずきました。もう今日中に終わるなら
なんでもいいです、と笑いながら言うと、加瀬亮(未満)も少し笑いました。
ああ、この引越屋さんいいひとたちだ、とわたしははじめて思いました。
二人は狭い階段を降りていきました。わたしはなまこのようになった靴下をしぼって、
まだ空の部屋で本棚を待ちました。

やがて階段を、かけ声をかけながら二人が上がってきました。
少しずつ、そっち落とすな、あせらなくていいから。
主に声をかけているのは野村宏伸でした。わたしは邪魔にならないように
ユニットバスの中にひそみ、便器に座って二人の様子を見ていました。
二階にたどり着いた二人はまず廊下で、奥の部屋のほうへ本棚を逃がしました。
そこから斜めに少しずつ扉の内側へ本棚を入れてきました。
いける、野村宏伸が言いました。
玄関先でくりひろげられる出来事は、ドアの形に切り取られて全貌がわかりません。
二人の姿も見えません。しかし少しずつ入ってくる毛布にくるまれた本棚を見て、
わたしも思いました。いける。
よーし、入った。
わたしはたまらずユニットバスを出て、あああありがとうございました、と
お礼を言っていました。おそらく大袈裟でなく涙ぐんでいたと思います。
いやー入りましたねよかった、野村宏伸も加瀬亮(未)も笑顔でした。
本当にうれしかった。

さて、すべての搬入が終わって支払いの段になりました。
指定時間内に終了したので、当初の予定どおりの金額で無事済みました。
ぼくらが来る予定ではなかったので領収書は後日郵送になります、と野村宏伸が
言いました。ご利用ありがとうございました。
加瀬亮(未)は疲れきった表情で先に階段を降りていきました。彼は本のつまった
ダンボールを二つ重ねて運んでいたりしていたのでした。
わたしは財布をふたたび開いて、二人を呼びとめました。引越貧乏もいいところだし、
めったにこんなことはしないのですが、感謝していることを形にしたくて、これで
ジュースでも買ってください、と千円札を渡しました。
野村宏伸が、ありがとうございます、と本当にありがたそうに千円札を両手で
受け取ってくれました。
最後にいただいた名刺の裏は「次回ご利用時10%割引券」になっていました。

またふりだしに戻ったわたしは、この部屋を新たな始点にしていろんな場所へ行くでしょう。
いろんな人と会うのでしょう。そして自分のためにあつらえたこの借りものの部屋に
何度も帰ってくるでしょう。この部屋で歌ったり悔やんだりまるまったりするのでしょう。
今まで暮らしたすべての部屋に忘れがたい記憶があり、すべての部屋でわたしは
少しずつつよくなっていました。上手に一人でいるために。
いつかこの部屋を出るときがきたとして、そのときのわたしがどうなっているのかは
さっぱりわかりませんが、その日のわたしのためにこの「次回ご利用時10%割引券」は
大事にとっておく。

とりあえずその日、お祝いで知人と食べた日高屋の餃子とビールは、たいへん
おいしかったです。
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by mayukoism | 2008-08-14 21:26 | 生活