乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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夜のいんちきなソネット

目をあけると大きな車窓は黒々と夜を切りとって、ぼんやりとひらいた
指紋をひとつ、浮かびあがらせていた。跳ねるように降りる。駅をひとつ
乗り過ごしていた。降りたのはひとりだった。


反対側のホームに出た。寝覚めの、熱をおびた身体をわずらわしいと
感じた。正面にあったベンチに腰かけて、うしろの駅の方角を見ていた。
上り電車はさきほどすれちがったので、あと15分は来ないだろう。


この駅と、あの駅のあいだに大きな川がある。冬から住みはじめたが
雪は見ていない、というとその人は残念そうな顔をして、あの川べりの
雪景色はむかし多摩八景に選ばれたのだ、と言った。


高架のプラットホームから見えない川を見ていた。夜と水がまじわると
どうして闇はあれほどに深くなるのだろうと考えていた。夜の川を
越えるとき、車窓の指紋は温みをさがしてよりはっきりとひらくだろう。


そのときぱんと音がして線路をわたったひとすじの青い光があった。
つづいてピンク。しばらくして緑。やがて再び辺りを泡のように静けさが
満ちて、トタン屋根を歩く鳩の乾いた足音だけが残った。


またたいたと思うとすぐに消える安価な花火の軌跡が、頭の中でかすかに
夜へ傷をつける。向こうの駅のそばにそびえるあの明るい建物はカラオケ
ボックスだ。だれもが自分の恋を唯一と歌うのだろう。


ほんとうにほしい人からの手紙はいつだって最後に届くのだった。
手紙をひらいてわたしはその人の一日の無事を確認し、ふいに目の前に
あらわれた上り電車に乗りこんで、車窓に映る自分をぼんやりと見た。


この町に住んだことの意味を考える。わたしはこの町に住んでいたことを
すぐに忘れるだろう。ときどきだれかに請われたときだけ子細な地図を
空にえがいて、だれかを驚かせるだろう。


これまでに、似た夜なんてひとつもなかった。いつでも見たことのない暗さで
夜は模範解答をかくした。わたしはきっとくりかえし、ひとつ駅を乗り過ごす。
家でそうするよりもはるかに深く眠りながら、安心して。
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by mayukoism | 2008-07-14 02:22 | 生活