乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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二十歳に陶酔しない

緑雨の夜静かに腐蝕する二十歳(鈴木みのり)

短詩形とは瞬間最大風速だ。
このたよりない、なにかの切りこみみたいな些細な一行を通過することによって、
どこまで遠くにいけるか。
どこまで遠くに連れていけるか。
ある日の朝刊に紹介されていたこの俳句を切りとって見せてみたのは
風が吹いたからだ。
朝が早いので、出がけに新聞を読む時間はないが、朝刊一面の
俳句だけは見て行く。

女の人の句だ、と言った。男はこういうのはつくらない。

なるほどなと思う。

自分の中の女性の部分、というのがあまり好きでない。
気がつくとそれを排除するほう、排除するほうへ向かっている。
けれども気まぐれにこうやって日記?なぞというものを書いていると、
書きながらこいつ女だなと思う。
言葉を書く、生むのは間違いなく女性のほうの「わたし」だ。
同じように、言葉に触れるときも否応なく自分の女性の部分というのが
現れてくる。
それを思考したことがなかった。それでなるほどな、と思った。

そのため、自己愛の強い人がエッセイを書くと、それはどうしようもなく鼻持ちならないものになってしまう。小説ならいくら自己陶酔してもかまわないが、エッセイでこれをやられると、読者は「ケッ!」ということになる。
したがって、自己愛型、自己陶酔型の人はエッセイには向いていないことになる。
ではどういう人がエッセイに向いているのか?
最低限、自己を客観視できる人である。もっとわかりやすく言うと「ドーダ、まいったか、オレサマはこんなにすごいんだ」と叫ばないでも、心おだやかでいられる人である。

〈『WALK56号 特集エッセイ』(水戸芸術館)所収 「ドーダとしてのエッセイ」(鹿島茂)より〉


エッセイ、とかコラム、とかいうものを本当に最近になって読みはじめて、
これが小説で別の世界へ飛ぶのに慣れているわたしにとってはむずかしい。
エッセイを読んでいる自分、というのをどこに置いたらいいのかわからず、
なんとなく気疲れしてしまったりする。
そもそもエッセイってなんなんだ、と考えていたわたしに上の文章が
ある一つの答えらしきものをくれた。これが面白かった。

ここで言われている自己愛型、自己陶酔型、というのが、前出の女性性と
わたしにとってはほぼ同義なのだ。それでなんとなく、こうした日記とか
ブログを書くのにもためらいがあった。ためらいがある。
こんなのおもしろいのかなあと思いながら、不安になりながら実は書いている。
いや、おもしろいよ、と言ってくれる人がいるのでなんとなく書いてみている。
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by mayukoism | 2008-06-14 01:43 | 本のこと