乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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レンガという名の喫茶店にて

向かいの喫茶店は、すでに閉まっていた。
が、Tさんはするりと店内にはいり、赤いソファにわたしたち4人を腰かけさせた。
カウンターには、さきほど立ちよった際にさんざんからんできた灰色の背広の青年と、
黒いジャケットの紳士が、ならんで腰かけていた。
酔いがさめたらしい青年は、とおくですこし照れ笑いをした。
ソファのうしろには、ストライプのシャツを着こなした、杖の老紳士が、
レンガの壁を背にふかく腰かけていた。そのうち横になった。
Tさんのリクエストで、店長のNさんがはっぴいえんどをかけた。
レンガに水がしみこむように、歌が空間にしみこんでいった。
空気に旋律が、白く、あわくうかぶのが見えるようだと、途中でなんどか思った。


向かい合わせの喫茶店は、互いに行き来がある。
お皿を借り、調味料を借り、店を閉めたあとは今日の様子を尋ねたりするのだという。
先日、そこで働いていたある女性が亡くなったことを、わたしはTさんのツイートで知った。
女性が書いた2冊の本のタイトルは、書店員である手前、耳にしていたが未読だった。
今日は、その女性を偲ぶ個人的な、小さな集まりだった。
わたしと同居人は、その方にお会いしたことがない。
が、Tさんにさそわれなんとなく、というほどのたよりなさで、おじゃましていた。


偲ぶ集まり、といっても、ほとんどは日常の、あるいは知り合いの話題に終始していた。
ときどき思い出したように、Tさんが彼女の話をした。
わたしはTさんの言葉の断片と、紙にのこされた彼女の言葉をめくりながら、
会ったことのない、けれどもどこかでおそらくすれ違っている、そしてもう会うことのない、
ひとりの女性について、想像した。
Tさんのボトルがテーブルにふるまわれ、金色の液体が各々のグラスを揺らしたとき、
Tさんが発した彼女の名前にかぶせるように、カウンターのほうから、
「もう死んだ」
という一言が飛んだ。


その一言は、一瞬にして閉店後の喫茶店の店内を、原色で満たした。
原色で、頭をなぐられたような気分だった。
だれひとりその発言に触れないまま、しかし息をのむような静けさがつかのま走り、
とまった時間をふたたび動かすように、やがてTさんは話をつづけた。
わたしはそのとき、彼女を知らないままここにいる自分を悔いた。
いまここにいるだれより彼女が、ここに「いる」と思った。


その後も入れかわり立ちかわり人がおとずれ、去っていった。
杖の老紳士は、ジャケットを羽織らせてもらったのち、ゆっくりと出ていった。
灰色の背広の青年は、向かいの喫茶店の女の子と出て行ったように見えた。
はっぴいえんどはすでに終わって、Nさんの力づよい「閉めます」の一言で、
店はほんとうに閉まった。
暗くなった店内は、終演後の舞台のようだった。
死の反義は言葉だとわたしは思っていて、わたしはきっと死なせないために、
今夜のことを書くだろう、書きながら現実の今夜にとても追いつけないことを、
きっとすこし絶望するだろう、と思いながら、偲ぶ人たちと並んで、駅へ向かった。
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by mayukoism | 2012-06-09 03:58 | 言葉