乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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ただそこにあるということ

なんども前をとおりすぎていた神保町の「純喫茶 ロザリオ」が、
6月30日で閉店するというので入ってみることにした。

遠目に見て、なるほど船か、と気づく。
すずらん通りから見える三つの丸い硝子戸と、入口の横に掲げられたメニューは操舵輪を模している。
食堂へは階段を降りていくから潜水艦だろうか。
通りすぎるだけでは気がつかなかった。

「四十年の愛顧改めて御礼申し上げます」の貼紙を横目に、なかへ入る。

地下の食堂は、おそらく閉店の知らせを見た人たちでいっぱいだった。
うわさにきく厨房の老婦人が、右へ左へあわただしく動きながらいらっしゃいませー、と声をかけてくれる。
かろうじて空いている席を見つけて座る。
黒い革ばりのソファは腰をおろすと、重心がおよよと左に寄る。

店内のありとあらゆるところが、傾いている。
階段の脇のレジが、厨房に見えるトースターが、首をかしげるように傾いている。
羽虫が飛んでいるなあ、とふと横を見たらひっくりかえった籐椅子の脚にびっしりと蜘蛛の巣が張っていて、
すこしぎょっとする。

厨房が落ちついたところで、マスターのご婦人が店内へ出てくる。
まず、常連らしい男性のもとへまっすぐに向かい、いままでありがとうございました、と声をかける。
話しかけられた男性はすこしの沈黙のあと、ここがないと行くところがなくなっちゃう、と低い声で言った。
ごめんなさい、わたしね、身体は平気なんだけど、頭がね、もうぼけてきちゃって。
ご婦人はおでこのあたりを指でとんとんとさして、そのように言う。
そのあともきゅっと曲がった腰で、ゆっくりテーブルをまわっていた。

閉店間際にはじめて来たわたしのような者にもごあいさつしてくださるのがなんだか申し訳なく、
ろくに話もできなかったのだけど、「純喫茶 ロザリオ」について書かれたたくさんの文章を見ると、
ご婦人はそうとうなお話好きのようだ。
ばかみたいに気どらないでお話をすればよかった。




そして先日おとずれた仙台のことを、考えていた。

そこは仙台市若林区で、多数の方々が津波で亡くなった場所だ。
仙台の中心部からもそう遠くない。
雑司が谷から神保町までよりも、やや近いくらいの距離だと思う。
有料道路の陸橋をくぐると、風景が一変したのだった。

一面が泥におおわれた地面に、どこから流れてきたのかわからない木が何本も転がっている。
かろうじて形をとどめている家の窓という窓は割れて、家そのものが口を開けたようになっている。
遠くに防風林が見えた。
ふりはじめた雨にけぶったように、おそらく海岸沿いの、ここからは見えるはずのない防風林が
かすかに見えたのだ。

そこにはつみかさねがなかった。
ひとりひとりの、小さな壁にかこまれた暮らしがそこにはあり、必要なものも、ほんとうはいらないものも
おそらく壁にまもられて、それぞれがひそかに熱を発していたはずだ。
いまはただ、見たことのない形だけがそこにはあった。
いま見ているのはわたしが知っている木ではなかったし、家でもなかったし、街でもなかった。

そこになにがあったのか、どのような景色がかつて目の前に広がっていたのか、わたしは知らない。
だから目の前に見えるものにしか、リアリティを感じることができない。
なのに、目の前にあるものから「リアリティ」をつかむ手がかりを見つけることができないのだ。
だから、わたしはただぼんやりするしかなかった。




「純喫茶 ロザリオ」には、すすけた造花やセルロイドのミッキーマウスや動かない時計が山ほど見えた。
どれもそこから生まれて、そこにずっとあるように、これからもあるように揺るぎがなかった。
そこにはおそらくたいした意味もなく、ただそこにあるだけなのだ。
ただそこにあるだけでいいのだった。

見わたせばどこもドトールやスターバックスやヴェローチェにあふれる街だ。
わたしはこれらの、どの店も好きだ。
同じものを頼み、同じように頼んだものが出てくるこれらの店を、わたしはとくに弱ったときに切望する。
それらを表に見せながら、内側に「純喫茶 ロザリオ」のような店がふと包まれていて、ときどき顔を出す。
街はそのようなものであってほしい。
街は、つるりとした新しい表情とともに、時が経てば古びる身体をもつものであってほしい。

今日、昼休憩の帰りしなに「純喫茶 ロザリオ」の前を通ってみた。
ご愛顧ありがとうございました、の紙さえなかった。
地域の清掃のご婦人方がなぜか集まって中をのぞき、ドアのとってを思いつきのようにひっぱった。
開かなかった。
どうかこれからの四十年を、またつみかさねるものがそこにできるように。
と、いのるように思いながら、早足で会社へ戻った。



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by mayukoism | 2011-07-02 04:12 | 見たもの