乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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『珈琲とエクレアと詩人』、港の人のこと

先だって風の強い夜、二次会へむかうにぎやかな人たちと別れ、ひとあし先に帰路についた。
地下鉄は都心の駅に向けて徐々に混みあい、頭の芯にはりついて離れない疲労をもてあましながら、
ひとりの自分をたしかめていた。
学生のころ門限が人よりも早かった自分にとって、宴を途中でおいとまするのは大げさなようだが、
いまでもかなりの贅沢なのだ。
もう少しこの贅沢を手にしていたくて、ひとつ先の駅で降りた。
遅くまで営業している本屋に入った。
なにかあればいいな、と思った。でもなにも見つからなくてもいいんだ、と自分をいさめた。
漠然と「なにか」を探すのは自分がよわっているときで、たいていなにも見つからない。
案の定、なにも決まらぬまま閉店のアナウンスがながれた。
エスカレーターに向かって歩くと、見たことのない平積みの表紙が見えた。

それが橋口幸子『珈琲とエクレアと詩人』(港の人)だった。
表紙の赤茶色のスケッチにまず惹かれ、そのスケッチを映しだす乳白色に惹かれた。
その厚みと軽さもすぐ手になじんだ。定価を見て正直おどろいた。
世のすべての詩に関する書物が、これくらいの値段だったらいいな、と本音を言えば思う。
BGMの消えた店でこの本を購入し、小脇にかかえてうきうきと部屋に帰った。
寝る前に読む本、とはじめから決めていた。
いちにちの終わりにまっさらな頭で、布団のなかで体勢を変えながら、行儀わるく読みはじめた。

「港の人」は鎌倉の由比ヶ浜にある小さな出版社である。
詩人の北村太郎さんと「港の人」代表である里舘勇治さんは、北村さんの横浜時代、
ご近所に暮らした縁で家族ぐるみの親交があり、1997年に設立した出版社に里舘さんは
北村太郎の詩集の名前をつけた。
もうずっと前からそこにあるようなしずけさ、というのが「港の人」がつくる本にいだくわたしの印象だ。
発売されたばかりの本はまだ棚にもなじまず、たいてい浮足だってざわついているのに、
「港の人」の本はにぎやかな書店のなかで、そこだけ目をとじる人のようにしずかだ。

『珈琲とエクレアと詩人』は北村さんの鎌倉時代に同じ家に暮らし、
北村さんがあるはげしい恋愛を経て、亡くなるまでのあいだをそばで見つづけた
橋口幸子さんによって書かれた短いエッセイ集である。
この本には、北村太郎さんのことしか書かれていない。
それも、いままでに読んだ詩やエッセイなどから、自分が読者として漠然と思い描いていた
「詩人・北村太郎」の姿ではなく、橋口さんのなかにいる橋口さんだけの「北村さん」の姿だ。
橋口さんのなかにある小さな部屋にはいまも小さな「北村さん」がいて、
入れ歯がはずれそうに大きな口で笑ったり、ソーメン食べる?とソーメンを茹でたりしている、
そんなあざやかさと親しさで、すべての文章がつづられている。

読んでいるあいだずっと、橋口さんの小さなたいせつな部屋をそっとのぞいているような気持ちだった。
この大事な部屋を散らかしてはいけない、と無意識に息をつめるように読んでいた。
橋口さんご自身の現在のことはほとんど語られないが、「二度目の鎌倉」という章のはじめに
わずかにふれられ、そのことさえ北村さんへの詫びの思いにつながっていく。

この本が「港の人」以外の出版社から出ることはありえないだろう。
「港の人」と「北村太郎」とのつながり、「北村さん」と橋口幸子さんとのつながり、
すべてが渾然と必然となって書物のかたちになった、希有に幸福な本だと思う。
そして幸福であることがかなしいのはなぜなんだろう。
橋口さんの部屋で、いまもたしかに息をしている「北村さん」があまりに素朴で、
その部屋をきっとずっとあたためて、ときには風をとおし、ときには現実にそうしたように
「超強力な掃除機」をかけたりしてきれいにして、ひとりでまもってきたのだろう橋口さんの、
北村さんに対する思いがあまりに深くて、読みおえたときなにも考えたくない、と思った。
ただ、この本を読みおえた、ということを、できるだけずっと感じていたかった。
それよりほかには言葉にならなかった。
自分の中にも小さな部屋ができた、と感じた。

そして、『珈琲とエクレアと詩人』を読めばどうしたって、ねじめ正一『荒地の恋』(文藝春秋)を思い出す。
どちらがどう、というわけではなく、この2冊はともに読まれてほしいと思う。
『荒地の恋』でありありと想像した、いくぶん若々しい北村太郎の姿が、
『珈琲とエクレアと詩人』ではもうすこしゆっくりとしたはやさで、とことこと前を歩いていく。
『荒地の恋』に賛否はあると聞くが、わたし自身はこの2冊を読んでよかったと思っている。
詩人のなかにあるのは言葉ではなく、「詩」という肉体がおそらくたしかにあるのだと、
その「詩」が詩人を生むのだと、それぞれのかたちで知ることができたから。

『荒地の恋』を読んだのは数年前の冬で、そのころわたしは婚約話をひとつ破談にしようとしていた。
破談が現実になるのはすこし先のことだったけれど、自分のなかでなにかがすでに変わってしまっていた。
もちろんそれは『荒地の恋』を読んだこととなんら関係ない。
ただ、ひらいてしまったトランプのようにもう戻れない感じ、戻らなきゃ、と思うのに、つぎからつぎへと
つらなってひらかれるカードのようにひきかえせない、その行きどまりの感じを『荒地の恋』とともに思いだす。
『珈琲とエクレアと詩人』とともに思い出すかもしれない景色がどのようなものかは、いまはまだわからない。
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by mayukoism | 2011-04-24 02:23 | 本のこと