乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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文学は消耗するか

植物園のそばの図書館で借りた『ドリーマーズ』(柴崎友香著/講談社)を読了。
このなかに入っている『夢見がち』という短編はおもしろかった。
「夢ネタ」や「夢オチ」は禁忌にちかいものがあるけれど、この短編は、メインとなるある夢の話と、
そこにつながる「現実」の話にディテールとそれなりの牽引力があった。
個人的に苦手意識のつよい柴崎友香だが(でも読んでおく)、この作品集は違和感なく読めた。

並行して同じ図書館で借りた『どうして書くの?穂村弘対談集』を読む。
対談集だからすぐに読み終わってしまう、と思いゆっくり読んでいたらゆっくりすぎて、
あとに読みはじめた『ドリーマーズ』のほうを、あっという間に読み終えてしまった。

以前にこの日記で、いま書かれている物語について「初期吉本ばなな」を座標軸にして、そこから
どのくらいずれるか、どのようにずれるかに、物語の起点や終点が、いまだにあるような気がする、
というような書き方をして、こういう書きかたをするときの自分はたいていにおいて直感のみで喋っており、
だから批評や評論というものがまったく書けないのだけど、似た内容の発言を高橋源一郎がしていた。
長いんですが、これはすごく面白かったので引用します。

現代詩はそれ以前の戦前的なものの純粋な否定として出てきました。「荒地」派があって、つづく「凶区」のグループがあって、僕らはそれを全部同時代的なものとして、先行するものの否定として読んできた。(中略)ところが、具体的な例でいうと、吉本ばななが出てきたときに、これは何かの否定かというと、違うんですね。彼女はいわばわきから入ってきているんです。ある意味では、歴史の「外」から。吉本ばななは、純文学を読んで、その否定で出てきたんじゃなくて、全然別のジャンルのホラーを読んだり漫画を読んだりして出てきた。非歴史的な選択の結果なんですね。
非歴史的な選択をしてきた作家は多分どの時代でもいたんでしょう。けれど、彼女以降新しく出てくる作家の
基本的なスタイルが垂直の選択から水平の選択になったというイメージが僕にはあります。水平に、ジャンル横断的に、あるいは任意に自分の好きなものをとってくるということ。それは結局、浮遊しているイメージをとってくることと同じになったんですね。イメージには歴史性がない。たまたまそこにあるというだけなのです。(後略)


このあと、吉本ばなながデビューしたのが80年代半ばで、ちょうど「現代詩文庫」の刊行が始まって
完結するまでと重なる、というような話にもつながっていくのだけど、これは文学や表現だけの話では
なく、世代や社会などのさらに大きなシーンにも広がりうる話だと感じた。
吉本ばななをはじめて読んだのは中学生のときで、あのときたしかに自由になった感じはした。
重い荷物を背負わなくても、「いまここ」の自分で、言葉で、小説は書けるのかもしれないと思った。
時代や世代のことはまったく考えなかったけれど、これはわたしのものでわたしの言葉だ、と
吉本ばななの小説を感覚的にうけとめたのはたしかだと思う。

しかし、引用した上記の対談はいったいいつおこなわれたんだろうと初出を見たら、なんと2001年だった。
2001年に対談で話していたことを、わたしはいま感じて、言葉にしているのか、と思ったらひどく情けなく
なったのだけど、この本の最後の章でふたたび2008年に、高橋源一郎と穂村弘が対談している。
7年後の同じ二人の対談。以下は高橋源一郎の発言。今度はやや短めにします。

文学者の戦いは、言葉を持って現実と格闘するという戦いですよね。かつては一つの世代が共通の武器で戦うことも不可能ではなかった。それは共通の経験・共通の言語を持っていたからです。その経験や言語を共有できるというシステムが、ぼくの年代以降、機能しにくくなってきた。戦争があったとか、団塊の世代でいうと経済戦争があったとか。九〇年以降、言語化しうるような、書くテーマとして持ち上げられるほど強度がある共通の何かは多分持ちにくくなった。とすると、みんながばらばらに、自分が戦えると思う範囲で、戦うしかない。正規軍戦からゲリラ戦に以降した、という言い方が正確かもしれません。


「共有できるシステム」とは何なのか、という話になるとまた別の方向に話は進んでいくのだろうけれど、
とりあえず2001年地点からあまり事態は動いていないようだということはわかる。実感としても
動いているとは思えない。むしろ、さらに混迷している感じもあって、このあと高橋源一郎は
「ただ単に社会が便利になった以外に、五十年前の戦後の文学の重々しい「私」というのもよかったと
最近では思ってしまうところがある。」なんて発言もしていて、高橋源一郎にそんなことを言われて
しまったら、読者としては、いったいこれから先どんな小説を期待して待っていればいいのだろう、と
ちょっと絶望的な気持ちにもなってしまう。

「固定電話」を持たなくなって「ケータイ」をみんなが持つようになって、「固定電話」が近代で、
あのころはよかったなー、と気づいた人たちが「固定電話」のある生活に戻ろうとするかと言ったら、
それはまずない。「ケータイ」で「メール」を送りあって「twitter」の「タイムライン」をいちにちに
何度も確認して、それはどうしようもなく「いまここ」の世界の共通の認識であり、共通の言葉だと思う。
問題はこの変化に文学がまったくついていっていない、ということで、それに対して現実は、
驚異的に軽やかなステップを踏んでどんどんおもしろく、便利に即座に変化対応していく。

でも、「驚異的に軽やかな」現実にはかならずついてまわってくる闇があって、それが「死」だと思う。
人はいつか死ぬ。そのことは近代だろうと現代だろうと変わらない。現実の生活が便利になっても
死は絶対に便利にはならない。そのことを、いったいどんなやり方で受けとめればいいんだろうと
ずっと考えている。もしかしたら自分以外の大多数の人はそれぞれにかしこく「死」を受け入れながら
この軽やかな現実を謳歌しているのかもしれないけれど、どうも自分にはそれがしっくりこない。



うーん、ぜんぜん話がまとまらない。削除しようかと思ったけれど、ここまで書いたのでとりあえず
アップします。
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by mayukoism | 2009-12-04 02:32 | 本のこと