乃木繭子 本のある風景など。http://twitter.com/komayuko


by mayukoism
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かわいそうなひと

「花王のバブ さくらの香り」を湯をはったユニットバスに入れると、
存外に重いそのももいろの固体は、すぐに湯の底でしゅるしゅると
小さな音をたててあぶくになっていく。
あぶくの上に足のうらをかざすと、しばらくしてわずかに気泡ののぼるけはいを
つちふまずのあたりに感じる。
指の腹を鼻先に近づけると、さくらくさい。
せまい浴槽はすぐに濃い色に満たされ、やがて小さくなった固体は
にせもののUFOのようになって水面に浮かびあがり、はげしくまわりはじめる。
しゅるしゅるがうすくなって消えるまでを見ながら、本を読む。

お風呂で読了。
『美酒すこし』(筑摩書房刊/中桐文子著)

昨晩、ある詩集をさがしに池袋往来座に行ったところ、すでに売り切れていたことが判明し、
なんとなく気持ちのやり場がないままぐるぐるしていたところ、この本を見つけた。
のむみちさんに、そう、これお買い得だよね、と言っていただく。
『会社の人事』の詩人、中桐雅夫の奥さんの回想録だ。さっそく読む。

こわい本であった。
自分の中でおしとどめた気持ち、言葉、しなかったこと、できなかったこと、
すべては「あなたのせいです」と言ってしまいそうになる、あのときの感じ、
あのときの、感情がどこまでも先走って空回りする乾いた感じをありありと思った。

たとえば姫路の実家に帰ったまま戻らない文子さんの母親宛てに、中桐雅夫から手紙が届く。
この内容に激怒した文子さんが返事を「書き飛ばす」。
どちらの手紙も抜粋されているが、文子さんは実はこの手紙を出してはいないのである。
しかし文子さんは自分の書いた返事を、中桐の手紙とともに「保存してあった」と書いている。
なんというこわいことをするひとだろう、と思う。

『美酒すこし』は中桐雅夫の死の2年後に刊行されている。
が、ここに書かれている文子さんの言葉は、中桐雅夫が死ぬ前から、おそらくずっと
用意されていたものだ。
死の5年前、危篤状態となった中桐雅夫の枕もとで看護婦さんに、名を読んであげて、と言われた
文子さんはそれを拒否する。

あとで誰かが彼に言ったそうだ。「あなたの奥さんってすごいわね」すごいわねというのは女の子の台詞としては最高級の悪口なのだ。私には判っていた。かわいそうなひと。

『美酒すこし』から「かわいそうなひと―序にかえて」より


これは「むこうがわに行ってしまった人」に対する覚悟の態度だと思う。
もっと他にできることが、とか、こんなになるまでなぜ、とか、他人は自分勝手に言うだろう。
けれどもほんとうにむこうがわに行ってしまった人に対して、家族も恋人も友人も、
じつは何もできないのである。どんなに手をのばしても届かないということは、絶対にある。
文子さんはもうずっと長いこと「覚悟」していた。そしてこの人は潜在的に「書く人」であった。
中桐雅夫との生活の中でうまれたジレンマや憤りの感情を、文子さんはすべて言葉で
インプットしていた。インプットされたものはすでにうずたかく積まれていた。
それらをそっくり取り出して、生まれるべくしてこの本が生まれた。それだけのこと。

久しぶりに『荒地の恋』(文藝春秋刊/ねじめ正一著)も思い出してひらいてみた。
ちょうど中盤あたりに、中桐雅夫が亡くなったときの北村太郎や鮎川信夫の様子が出てくる。
奥さんは「艶子さん」という名で出ている。

「艶子さんとは話したか」
「ああ。あんな状況だったのにしっかりしていた。覚悟ができていたんだな」
「あのひとも肝が据わっているからな。俺ももう少ししたら彼女と話がしたいな」
鮎川が薄く笑った。鮎川は艶子夫人と親しかった。俺と艶子さんは似たもの同士だ、何しろ共通の敵が中桐だからな、などと冗談めかして言ったこともあった。


『美酒すこし』には中桐雅夫の詩が頻繁にあわわれる。
いま見つけられないのでうろ覚えだが、中桐雅夫が文子さんに、「きみの唯一のいいところは
話が通じるところだ」と言っていた、というようなエピソードがあった。
「書く人」であった文子さんは、話のできる人であり、中桐雅夫の詩の言葉を解する人であった。
きびしい文章の中に詩の引用があらわれるとき、そこに二人の、一言では説明できない
なにがしかの結びつきが見えるような気持ちがする。
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by mayukoism | 2009-03-16 04:22 | 本のこと